大判例

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静岡地方裁判所 昭和48年(ワ)342号 判決 1977年6月14日

原告

森佐知恵

右法定代理人親者父

森明重

同母

森則子

原告

大池晶子

右法定代理人親権者父

大池俊治

同母

大池みち子

原告

石川重朗

右法定代理人親権者父

石川善朗

同母

石川玖美子

原告

塚本泰一

右法定代理人親権者父

塚本潔

同母

塚本洋子

右原告四名訴訟代理人弁護士

小林達美

佐藤久

藤森克美

安養寺龍彦

徳住堅治

外二三名

被告

日本赤十字社

右代表者社長

東龍太郎

右訴訟代理人弁護士

牧田静二

饗庭忠男

被告

静岡市

右代表者市長

荻野準平

右訴訟代理人弁護士

饗庭忠男

向坂達也

亡田口英太郎訴訟復代理人弁護士

池田滋

被告

静岡県厚生農業協同組合連合会

右代表者理事

塚本五一郎

右訴訟代理人弁護士

饗庭忠男

向坂達也

亡田口英太郎訴訟復代理人弁護士

池田滋

主文

一  被告静岡市は原告塚本泰一に対し、金二、五二九万五、〇〇〇円およびこれに対する昭和四八年一〇月三〇日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告塚本泰一の被告静岡市に対するその余の請求ならびに原告森佐知恵、同大池晶子および同石川重朗の請求は、いずれもこれを棄却する。

三  訴訟費用中、原告森佐知恵、同大池晶子と被告日本赤十字社間に生じた分は、右原告両名の、原告石川重朗と被告静岡県厚生農業協同組合連合会との間に生じた分は、同原告の各負担とし、原告塚本泰一と被告静岡市との間に生じた分は、これを二分し、その一を同原告の、その余を同被告の負担とする。

事実

第一  各当事者の求めた裁判

(原告ら)

一、1 被告日本赤十字社(以下「被告日赤」という。)は、原告森佐知恵、同大池晶子に対し、各金六、六〇〇万円およびこれに対する昭和四八年一〇月三〇日から、

2 被告静岡県厚生農業協同組合連合会(以下「被告厚生連」という。)は、原告石川重朗に対し、金六、六〇〇万円およびこれに対する前同日から、

3 被告静岡市は、原告塚本泰一に対し、金六、六〇〇万円およびこれに対する前同日から

それぞれ完済まで各年五分の割合による金員を支払え。

二、訴訟費用は被告らの負担とする。

三、仮執行宣言。

(被告ら)

一、原告らの請求をいずれも棄却する。

二、訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  各当事者の主張

(原告らの請求原因)

一、当事者

1 原告らは、いずれも未熟児網膜症(以下「本症」という。)に罹患し、失明したものである。

2 被告らは、定款あるいは条例等により定められた業務の一つである健康増進、疾病・苦痛軽減その他社会奉仕等のための事業の一環として、静岡市あるいは清水市において、総合病院を経営ないし運営し、小児科医、眼科医等を雇傭して医療行為を行わせていたものである。

二、原告らの失明

原告らは、それぞれ左記1ないし4記載のとおり、いずれも未熟児として出生し、出生と同時にあるいは出生後ただちに各被告らの経営する病院(以下「被告ら病院」と総称する。)に入院し、保育器に収容されて酸素の投与を受けていたが、全員が、被告ら病院の保育器内において保育中に本症に罹患し、両眼の視力を完全に失つて全盲となつたものである。

1 原告森

(一) 昭和四五年一〇月九日、静岡赤十字病院にて出生。

(二) 同病院にてムルヨノ・ウイルヨデイアルジヨ医師の担当により保育された。

(三) 生下時体重は一、五八〇グラム。

(四) 入院期間は、出生日から同年一二月五日までおよび昭和四六年一月一八日から同年二月九日まで。

(五) 保育器収容期間は、出生日から昭和四五年一二月五日までおよび昭和四六年一月一八日から同年二月二日まで。

(六) 入院期間中眼底検査は全くなされず、退院時においても眼底検査のため来院せよとの指示はなされなかつた。

(七) 家族が眼の異常に気付いたのは、生後一〇か月目ころ。

(八) 本症による失明は、(七)の翌日に同病院眼科の伊予田医師によつて診断された。

2 原告大池

(一) 昭和四六年一月一〇日、静岡赤十字病院にて出生。

(二) 同病院にてムルヨノ・ウイルヨデイアルジヨ医師の担当により保育された。

(三) 生下時体重は一、六〇〇グラム。

(四) 入院期間は、出生日から同年三月二二日まで。

(五) 保育器収容期間は、出生日から同年三月二日ころまで。

(六) 入院期間中眼底検査は全くなされず、退院時においても眼底検査のため来院せよとの指示はなされなかつた。

原告大池の母みち子は、同医師に対し、生後五日目ころに、酸素による眼の障害の例があるから注意してほしい旨頼み、生後一か月目ころにも眼底検査をしてほしい旨頼んだほか、その後も看護婦や保健婦に大丈夫かどうか尋ねたが、いずれの場合にも同病院から本症による失明が出たことはないと一笑に付された。

(七) 家族が眼の異常に気付いたのは、生後八〇日目を過ぎたころ。

(八) 本症による失明は、昭和四六年四月二三日に同病院眼科の伊予田医師によつて診断された。

3 原告石川

(一) 昭和四五年一〇月二六日、清水市内の庄司産婦人科医院にて出生。

(二) 同日、清水厚生病院に入院し、榊原秀三医師の担当により保育された。

(三) 生下時体重は一、四二〇グラム。

(四) 入院期間は、同年一二月二六日まで。

(五) 保育器収容期間は、入院日から同年一二月二六日ころまで。

(六) 入院期間中眼底検査はなされなかつたが、同病院側は生後三〇日目に一回行つたと言つている。

(七) 家族が眼の異常に気付いたのは、昭和四六年三月一五日ころ。

(八) 本症による失明は、昭和四六年三月二六日に同病院眼科の林医師によつて診断された。

4 原告塚本

(一) 昭和四八年二月九日、静岡市立病院にて出生。

(二) 同病院にて水野春雄医師の担当により保育された。

(三) 生下時体重は、一、二八〇グラム。

(四) 入院期間は、出生日から同年四月二二日まで。

(五) 保育器収容期間は、出生日から同年四月一二日ころまで。

(六) 保育器収容期間中眼底検査はなされず、同年四月一七日に一回なされたのみ。

原告塚本の両親潔および洋子は、同月一八日、同医師に呼ばれ、本症についての説明を受け、治療方法として光凝固法のあることを教えられ、同月二二日には国立小児病院を紹介され、同月二四日に同病院に入院し、同月二六日に手術を受けたが、本症の進行を阻止することができなかつた。

同病院の紹介により、同年五月一一日に静岡赤十字病院で受診したが、RLFにより全盲と診断された。

(七) 家族は、右説明を受けるまで、眼の異常に気付かなかつた。

(八) 本症が後水晶体線維増殖症(retrolental fibroplasia.以下「RLF」という。)の段階にまで進行していることは、昭和四八年四月一七日に静岡県立中央病院眼科から静岡市立病院に非常勤として診療に来ていた藤堂医師によつて診断された。

三、各担当医師の過失

1 本症の発生原因

本症は、保育器内に収容された未熟児に投与された酸素が原因となつて、未熟児の水晶体後部に線維増殖を生じ、網膜が剥離して視機能を失い、失明に至るものであり、被告ら病院に勤務する各担当医の酸素供給という医療行為と原告らの失明との間には相当因果関係がある。

2 本症の臨床経過

本症の臨床経過は、オーエンス(O-wens)およびリース(Reese)らにより、活動期、回復期、瘢痕期の三つに大別されており、活動期は、その病変の進行経過に従い、および次の五期に分けられている。

(一) Ⅰ期……網膜血管の怒張と迂曲がみられ、出血はあることもあり、ないこともあるが、特に眼底のごく周辺に初期の血管新生があることもある。

(二) Ⅱ期……Ⅰ期の所見に加え、血管新生と網膜周辺部の混濁がみられ、出血は通常あるが、硝子体の混濁はあることもあり、ないこともあつて、なお自然寛解が起りうる。

(三) Ⅲ期……Ⅱ期の所見に加え、眼底周辺に網膜剥離がみられ、自然寛解は殆ど起らない。

(四) Ⅳ期……網膜の半分または周辺全部に剥離がみられ、広範囲にわたつて網膜が隆起するが、なお一部の網膜は定位置にある。

(五) Ⅴ期……網膜の全剥離

回復期とは、右病変の進行がある時点で停止し、自然寛解に向つて反転進行する時期のことであるが、本症は、発症しても、大部分は回復期を経て自然寛解する。

瘢痕期とは、進行した症状が固定する時期をいうが、その程度によつて、およそ次の五度に分けられる。

(一) Ⅰ度……眼底周辺に観察可能な網膜剥離を伴なわない不透明な組織の小塊がみられ、眼底は蒼白を呈することもあり血管は細小になつていることもある。

(二) Ⅱ度……眼底周辺に局所的な網膜剥離を伴う不透明な組織の比較的大きな塊がみられ、乳頭は組織塊側への牽引により変形されるが、通常は一時的なものである。

Ⅰ度またはⅡ度にとどまつた症例では用を弁ずる視力が保たれている。

(三) Ⅲ度……眼底周辺に乳頭に向つて延びる網膜皺襞を形成する不透明な組織のより大きな塊がみられ、視力は5/200(0.02)から20/50(0.4)くらいになる。

(四) Ⅳ度……瞳孔領の一部をおおう水晶体後部の組織がみられ、剥離していない網膜の小領域はなお透見しうることもあり、さもなければ眼底の一角に赤色の反射のみがみられることもある。

(五) Ⅴ度……瞳孔領の全部をおおう水晶体後部の組織がみられ、眼底の反射はない。

従来RLFと呼ばれてきたものは、本症瘢痕期のⅣ度またはⅤ度の症状を指すものと考えられる。

本症は、生後三ないし五週目に発生し、一定期間を経て瘢痕期に移行してしまう。

3 本症発生の予防措置および発症後の治療方法

(一) 酸素補給の管理

未熟児を死亡から救うため酸素を補給することは医師の第一の任務であり、患児にとつても望ましいことであるから、医師は酸素の補給をなすべきである。

しかし、本症は、高濃度酸素環境下に発生するものであるから、発症を予防するために、医師は、次のような方法で酸素を投与しなければならない。

(1) 酸素は、未熟児の救命のため真に必要な場合にのみ投与すべきであり、未熟児であるからといつて、慢然と投与することは許されない。具体的にいえば、未熟児に明らかな呼吸障害がある場合や強度のチアノーゼがある場合等に限り投与を開始すべきであり、また、これらの症状がおさまつたならば、投与を継続すべきでない。

(2) 酸素を投与する場合においても、その濃度および投与期間を必要かつ最小限度にとどむべきであり、そのためには、投与後の未熟児の臨床状況に十分注意し、明らかな呼吸障害や強度のチアノーゼが改善されれば、速やかに投与を中止すべきであり、また、酸素濃度は、濃度計により正確かつ頻回に測定すべきである。

(二) 定期的眼底検査

万が一本症が発生したとしても、これを早期に発見し、適切に治療するならば、失明を容易かつ確実に防止することができる。本症を早期に発見するために、担当の小児科医は、眼科医の協力を仰ぎ、未熟児に対し、酸素投与中はもとより、投与中止後も一定の期間(生後約六ケ月目までの間)、定期的(週一回程度)に眼底検査を行うべきである。本症は目以外の部位に特別な兆候を示さないで、これ以外に早期発見の方法はないからである。

(三) 退院時の説明

酸素の投与を受けた未熟児が退院する場合に、医師は、保護者に対し、酸素投与によつて本症が発生するおそれのあることおよび退院後も一定期間眼底検査を受ける必要のあることを説明すべきである。万が一発症した場合に、すみやかに最高の治療を受けることができるという患者の権利の保障は、この説明にかかつているからである。

(四) 治療

本症の発生が発見された場合には、医師は、すみやかに最高かつ最適の治療を当該未熟児に受けさせなければならない。

そのために、医師は、日常的に自己の医療技術を高め、自己の勤務する病院の医療設備を充実させるよう努力すべきであるが、同時に他の医師の医療技術の程度や他の病院の医療設備の現状を把握し、自己の医療技術または自院の医療設備によつて効果的な治療を行うことができないと判断されるときは、すみやかにこれを行うことができる医師または病院に患者を転医させるべきである。

本症に対する最適の治療方法とは、次のようなものである。

(1) 発症後ただちに酸素濃度を調整しまたは酸素投与を中止することによつて自然寛解を促す。

(2) ACTH、副腎皮質ホルモン等の投与によつて進行を防止する。

(3) 右(1)、(2)の方法によつても進行を防止しえないときは光凝固または冷凍凝固によつて失明を防止する。

以上の治療方法により、本症に罹患しても確実に失明を防止することが可能である。

4 各担当医師の注意義務

(一) 医師の注意義務

医師は、患者の生命と健康を守ることをその業務とし、また広く国民の健康な生活を確保するという公的な使命を帯びている(医師法一条)のであるから、患者の病状に注意することはもとより、その治療方法の内容および程度等については常に高度の医学水準を保持し、高度の医学知識にもとづき、その治療の効果と副作用等すべての事情を考慮し、万全の注意を払つて治療を実施しなければならない注意義務がある。

(二) 未熟児を保育する医師の注意義務

未熟児の保育医療に携わる医師は、医療行為当時における未熟児保育医療に関する医学水準に属する知識と技術を身につけておくべき注意義務があるところ、2に前述したような本症の臨床経過ならびに3に前述したような本症発生の予防措置および発症後の治療措置は、昭和四五年当時、既に未熟児保育医療に関する医学水準に属する知識と技術になつていたものであるから、昭和四五年以降未熟児の保育医療に携わる医師としては、右知識および技術を当然身につけておくべきであつた。

5 各担当医師の過失

ところが、原告らの保育医療に当つた被告ら病院の各担当医師は、次のとおり、いずれも右注意義務を懈怠し、本症の発生を予見することも本症による失明という結果を回避することもできなかつた。

(一) 原告森、同大池の担当医師である静岡赤十字病院の小児科医ムルヨノ・ウイルヨデイアルジヨ(以下「ムルヨノ医師」という。)は、同原告らに呼吸障害がなくなり、強度のチアノーゼが消失したのに、なお高濃度の酸素投与を継続したうえ、本症を早期に発見するために必要な眼底検査を全く行わず、退院時に保護者に対し本症のことや眼底検査について何らの説明をもしなかつた。

(二) 原告石川の担当医師である清水厚生病院の小児科医榊原秀三(以下「榊原医師」という。)は、同原告に対し、漫然と高濃度の酸素を投与し続けたうえ、生後三〇日目に一回眼底検査を行つたと言つているのみで、その後定期的な眼底検査を行わず、本症に対する適切な治療も施さなかつた。

(三) 原告塚本の担当医師である静岡市立病院の小児科医水野春雄(以下「水野医師」という。)は、同原告に対し、漫然と高濃度の酸素を投与し続けたうえ、生後六八日目に初めて眼底検査を行つたが、その時点においては既に治療の適期を過ぎており、同原告の失明を防止することができなかつた。

四、被告らの使用者責任

各原告らの失明は、各担当医師の過失にもとづくものであるところ、被告日赤はムルヨノ医師を、被告厚生連は榊原医師を、被告静岡市は水野医師をそれぞれ雇傭して医療業務を行わせていたものであり、各原告らに対する医療行為は右業務の執行としてなされていたものであるから、被告らは、民法七一五条にもとづき、各担当医の使用者として、各原告らに生じた後記損害を賠償しなければならない。

五、原告らの損害

1 原告森の損害

(一) 逸失利益

原告森は、両眼失明により労働能力を一〇〇パーセント喪失した。同原告の稼働可能年数は、中学校卒業時の一五歳から六七歳までの五二年間とみるべきであり、この場合の将来の逸失利益は、昭和四九年賃金構造基本統計調査報告(労働大臣官房統計情報部作成)の産業計・企業規模計・学歴計女子労働者全年齢平均給与額である金一一二万四、〇〇〇円を基準とし、これに家事労働分年二四万円を加算したうえ、毎年勤労統計調査報告(同部作成)による同年から昭和五一年までの賃金上昇率1.292を乗じた額を基礎として、年五分の割合による中間利息をライプニツツ方式により控除して、損害発生後である昭和五一年現在における価額を算定すると、約一、九九二万円となる。その計算式は次のとおりである。

(1,124,000円+240,000円)×1.292

×11.307≒1,992万円

(二) 介護料(付添費)

原告森は、その被害実態からして、生涯にわたり二四時間付添い介護してくれる者を必要とするところ、同原告の昭和五一年現在における平均余命年数は六九年であり、右期間中、日本看護婦家政婦紹介事業組合昭和五一年実施付添人日当額である一日当り金五、〇〇〇円の割合により算出した金額を基礎として年五分の割合による中間利息をライプニツツ方式により控除して算定すると、約五、三七九万円となる。その計算式は次のとおりである。

5,000円×365×29.474≒5,397万円

(三) 慰藉料

原告森の慰藉料を算定するにあたつては、

(1) 本件被害が重大であり、同原告のみならず、家族全員が、現在および将来にわたり、多大かつ深刻な精神的苦痛を受け続けなければならないこと

(2) 本件被害が、被告日赤の担当医師の最も初歩的かつ根本的な注意義務の懈怠によつて惹起され、しかも同被告が現在に至るまで不誠実かつ無責任な態度をとり続けており、その加害態様にきわめて背信性と反社会性が高いこと

(3) 右加害行為は、全面的に同被告側の過失にもとづくものであり、同原告側には何らの過失もなく、過失相殺等の斟酌すべき事由が全くないこと

の各事由を十分に勘案し、本件被害実態の総体に即した内容のものにする必要があるところ、本件においては、同原告およびその家族全員の精神的苦痛を全体として把握すべきものであるから、その慰藉料としては、金二、〇〇〇万円が相当である。

(四) 弁護士費用

原告森の右各費目の評価額を合計した数値は、金九、三七一万円となるところ、同原告は、その内金として金六、〇〇〇万円を被告日赤に請求するが、同被告は任意に右金員を支払わないので、同原告は本訴の提起を余儀なくされたところ、事案の性質上訴訟の追行を弁護士に委任せさるをえず、本訴において勝訴判決を得たときには、認容額の一割を原告訴訟代理人らに支払う旨約した。そこで、同原告の弁護士費用としては、金六〇〇万円が相当である。

2 原告大池

逸失利益、介護料、慰藉料、弁護士費用とも原告森に同じ。

3 原告石川

(一) 逸失利益

原告石川は、両眼失明により労働能力を一〇〇パーセント喪失した。同原告の稼働可能年数は、中学校卒業時の一五歳から六七歳までの五二年間とみるべきであり、この場合の将来の逸失利益は、前掲昭和四九年調査報告の産業計・企業規模計・学歴計男子労働者全年齢平均給与額である金二、〇四六、七〇〇円を基準とし、これに前述の同年から昭和五一年までの賃金上昇率1.292を乗じた額を基礎として、年五分の割合による中間利息をライプニツツ方式により控除して、昭和五一年現在における価額を算定すると、約二、九九〇万円となる。その計算式は次のとおりである。

2,046,700円×1.292×11.307

≒2,990万円

(二) 介護料(付添費)

原告石川は、その被害実態からして、生涯にわたり二四時間付添い介護してくれる者を必要とするところ、同原告の昭和五一年現在における平均余命年数は六四年であり、右期間中、前述した付添人日当額である一日当り金五、〇〇〇円の割合により算出した金額を基礎として、年五分の割合による中間利息をライプニツツ方式により控除して算定すると、約五、一六九万円となる。その計算式は次のとおりである。

5,000円×365×28.325≒5,169万円

(三) 慰藉料および弁護士費用

原告森の慰藉料および弁護士費用に関して述べたところを、「原告森」を「原告石川」に、「被告日赤」を「被告厚生連」にそれぞつ読替えたうえ、全て引用する。

4 原告塚本

(一) 逸失利益

原告石川の逸失利益に関して述べたところを引用するが、ライプニツツ係数が変わるため、約二、七一二万円となる。その計算式は次のとおりである。

21,046,700円×1.292×10.256万円

≒2,712万円

(二) 介護料(付添費)

原告石川の介護料に関して述べたところを、平均余命年数を「六六年」としたうえ引用するが、ライプニツツ係数が変わるため、約五、二五四万円となる。その計算式は次のとおりである。

5,000円×365×28.793≒5,254万円

(三) 慰藉料および弁護士費用

原告森の慰藉料および弁護士費用に関して述べたところを、「原告森」を「原告塚本」に、「被告日赤」を「被告静岡市」にそれぞれ読替えたうえ、全て引用する。

六、結語

よつて、原告森、同大池はそれぞれ被告日赤に対し、原告石川は被告厚生連に対し、原告塚本は被告静岡市に対し、いずれも民法七〇九条、七一五条にもとづき、各自金六、六〇〇万円およびこれに対する本件訴状が各被告らに送達された日の翌日である昭和四八年一〇月三〇日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

(請求原因に対する被告らの認否……特段の表示がない限り、被告全員に共通。)

一、請求原因一は認める。

二、同二について

前文のうち、原告ら全員が被告ら病院の保育器内において保育中に本症に罹患したとの点は争い、その余は認める。

(被告日赤)

1  同二の1について

(一)ないし(四)は認める。

(五)のうち、保育器収容期間の始期は認めるが、終期は否認する。

(六)のうち、入院期間中眼底検査がなされなかつたことは認めるが、その余は否認する。

(七)は不知。

(八)のうち、診断時期は否認し、その余は認める。

2  同二の2について

(一)ないし(四)は認める。

(五)のうち、保育器収容期間の始期は認めるが、終期は否認する。

(六)のうち、入院期間中眼底検査がなされなかつたことは認めるが、その余は否認する。

(七)は不知。

(八)は認める。

(被告厚生連)

3 同二の3について

(一)ないし(四)は認める。

(五)のうち、保育器収容期間の始期は認めるが、終期は否認する。

(六)のうち、入院期間中眼底検査がなされなかつたことは否認し、その余は認める。

(七)は不知。

(八)は認める。

(被告静岡市)

4 同二の4について

(一)ないし(三)は認める。

(四)のうち、入院期間の始期は認めるが、終期は否認する。

(五)のうち、保育器収容期間の始期は認めるが、終期は否認する。

(六)ないし(八)は認める。

三、同三について

1 同三の1については、本症が網膜血管の未熟性を素因とし、酸素を誘因として発生するものとされていることは争わないが、その余は、酸素のみが誘因であるという点を含め、すべて争う。

本症は、保育器内において酸素を投与されなかつた未熟児にも発生するのであつて、その発症機序については現在においても不明の点が多く、酸素療法と失明との間の因果関係は、原告らの主張するように単純なものではなく、被告ら病院の各担当医師の酸素供給行為と原告らの本症による失明との間には、相当因果関係がない。

2 同三の2については、本症の臨床経過に関する一学説としてオーエンスらが原告主張のような分類をしていることは認めるが、本症が生後三ないし五週目に発症し、一定期間を経て瘢瘍期に移行するとの点は否認し、その余は争う。

3 同三の3について

(一)のうち、未熟児を死亡から救うため酸素を補給すべきであるとの点は認めるが、その余は争う。

(二)は争う。

(三)も争う。

(四)も争う。

4 同三の4は争う。

5 同三の5も争う。

四、同四のうち被告日赤がムルヨノ医師を、被告厚生連が榊原医師を、静岡市が水野医師をそれぞれ雇傭して医療業務を行わせ、各原告らに対する医療行為が右業務の執行としてなされていたことは認めるが、その余は争う。

五、同五は争う。

六、同六も争う。

(被告らの主張……特段の表示がない限り、被告ら全員に共通。)

一、本症の歴史的背景

1 本症の歴史は、一九四二年、アメリカのテリー(Terry)がRLFとして発表したことから始まるが、テリーは、RLFを酸素投与と関連づけたのではなく、眼の先天性異常、すなわち形成不全と考えていた。

一九四九年、アメリカのオーエンスは、RLFには後天性の因子が影響を与えるものと考え、重要な因子としてビタミンEの欠乏を挙げた。

一九五一年、オーストラリアのキヤンベル(Campbell)は、本症が酸素保育器の完備された特定の病院で発生することから酸素との関連を示唆し、翌一九五二年アメリカのパツツ(Patz)も同旨を指摘し、数年にわたる観察と研究の結果、本症については、(一)網膜血管の未熟性と(二)高濃度酸素の二つが最も重要な因子であると考えられるに至つた。

2 右研究過程において重要なことは、本症の発生原因について、二つの相反する解釈が生じたことである。

一つは、未熟網膜を高濃度酸素環境に長く置くこと自体から本症が発生する、という説であり、他は、酸素不足の未熟児を十分な期間、十分な濃度の酸素環境に置かないことや、高濃度酸素環境から急に大気中の酸素環境に出すことによつて発症する、という説であつた。

3 一九五六年、アメリカのキンゼイ(Kinsey)は、多数の症例を基礎にして研究した結果、高濃度酸素環境下に置くことが最も危険な因子であると指摘し、酸素濃度を下げ、必要期間のみ投与する場合においても、未熟児の死亡率は上昇しないと主張した。

そこで、右見解に従つて酸素の制限が行われ、本症の発生は劇的に減少したが、アベリー(Avery)らの研究により、一九六〇年ころから未熟児の死亡率が明らかに上昇していることが指摘され、特発性呼吸障害症候群(Idiopathic Respiratory Distress Syndrome 以下「IRDS」という。)のある児では、高濃度の酸素を投与しなければならないことが小児科医により主張されたことから、パツツも再び本症が増加することを推定した。

4 わが国においては、保育器の普及が欧米より遅れ、欧米における酸素制限の後にようやく普及したため、本症は既に過去の疾患と考えられ、これに対する眼科医の関心も薄く、初期の眼科文献の中には、RLFによく似た先天性異常をRLFと混同していたものも多く、これら先天性異常を含めたものをRLFの概念として捉えていたものもあつた。

本症の発生率の調査についても、昭和四二年、国立小児病院の植村医師が同年二月発行の「臨床眼科」二一巻二号(甲第四号証、以下「甲四」のように表示する。)に報告をし、ついで翌四三年、天理病院の永田医師らが同年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号(甲六)に報告をしたのが研究のはじまりともいうべきものであつたが、これらの研究、調査は、小児科と眼科のプロジエクトチームを組織しうる病院において先駆的になされえたものである。

昭和四五年一二月発行の「日本新生児学会雑誌」六巻四号(甲一三)において、植村医師が「成人ではいとも手軽に、しかもほとんど常例的に行う眼底検査でさえも、小児、殊に乳幼児では余り行われていなかつた。まして、新生児、未熟児の眼底検査などは、現在ですら余り行われていない。そのため、眼科医の中では、新生児、未熟児の眼底をみたことのないものも少くない。」と述べているように、眼科医の間でも本症についての関心は薄く、まして小児科医にとつての知識は僅かなものであつた。

二、本症の臨床経過

1 オーエンスらの分類については、請求原因三の2記載のとおりである。

2 本症は、回復期を経て自然寛解する率が六〇ないし七〇パーセントにものぼり、進行の兆候がないときには回復期に入つたもと考えられるが、中には再び増悪するものもある。

3 瘢痕期病変のうち、臨床的に最も多いのはⅡ度のものであるが、本症は、瘢瘍期に入ると、虹彩後または前癒着、緑内障などの合併症を生ずる。

4 本症は、発症しても、すべてが活動期Ⅴ期まで進行することはなく、八五パーセントはⅡ期までに停止する。

ただ、すべての場合がこのような経過を辿るわけではなく、中には発症後一ないし二週で急速に網膜剥離に至るラツシユタイプのものがある。

5 本症において自然寛解しなかつた症例のうち、三分の一は失明し、三分の二は弱視になるとされている。

三、本症の原因

1 本症の原因として、かつてはビタミンEの欠乏やホルモンの欠乏などが挙げられたが、酸素以外の原因は否定され、現在においては、未熟児の眼底血管の未熟性と酸素が重要な因子と考えられている。

パツツの研究によると、網膜血管は、胎生八か月ころまでは耳側において鋸歯状縁まで達しておらず、この時期に出生すると、それ以後の網膜血管の新生は胎外環境で行われ、この新生血管は酸素の過剰にも不足にも敏感に反応するとされている。

2 発症の条件

(一) 網膜血管の未熟性

関西医科大学の岩瀬帥子医師ら五名が昭和四五年二月に「小児科・内科」二巻二号に発表した論文によれば、次のような結果が示されている(戊三四)。

対象未熟児一八〇名(生下時体重一、〇〇〇グラムないし二、五〇〇グラム)のうち、網膜症発生は一七名であつた。

これを生下時体重別階級に分けると、一、〇〇一グラムから一、五〇〇グラムが六名、一、五〇一グラムないし二、〇〇〇グラムが一〇名であり、発症率はそれぞれ26.1パーセント12.8パーセントであつた。

また、これを在胎週数別階級に分けると、三〇週以下が七名、三一週ないし三五週が九名であり、発症率はそれぞれ43.7パーセント、8.3パーセントであつた。

そして、これら一七名の症例を出生時の状況、母体の異常、出産後の状況、酸素投与中の保育器内酸素濃度、投与日数などの諸条件を加えて分析した結果、本症の発生は、生下時体重とも相関があるが、それ以上に在胎期間との相関が大きく、本症発生の第一条件は網膜血管の未熟性としなければならない、と結論づけている。

(二) 酸素供給との関係

未熟児保育の最も重要な目的は生命の維持であるところ、特に生下時体重一、五〇〇グラム以下の未熟児(以下「極小未熟児」という。)においては、IRDSによる死亡を防ぐため、酸素供給は不可欠である。

酸素制限が強く主張されてから、IRDSによる死亡が増加し、脳中枢神経障害と酸素不足との相関も指摘されるようになつたため、現在における酸素供給の基準は、通常四〇パーセント以下の濃度で投与し、必要があればより高い濃度で投与すべきものとされている。

本症の発生に酸素が一つの原因となっていることは否定しえないが、本症は、酸素の投与を受けない未熟児にも、また安全とされる二〇ないし四〇パーセントの濃度の酸素投与しか受けていない未熟児においても発生する。

酸素供給の適正さをモニターする方法として、動脈血の血中酸素分圧(以下「PO2」と表記する。)を測定する方法も考えられているが、適正値の範囲や測定方法については未だ定説がない。

さらに、PO2の値がそれほど高くないのに本症の発生がかなりみられることから、発症と酸素供給の不適正さとの間の因果関係にも一元的に説明しにくい面がある。

(三) 結局、現時点においても、本症は、網膜血管の未熟性をもつて生まれた未熟児が、胎外生活をするに際して酸素その他の原因を受け、胎外生活に適応してゆく過程において生ずる異常である、と考えるほかはない。

四、本症の治療

1 治療法の開発は、発症機序の解明と密接に関連する。

本症の進行を阻止するため、かつては血管拡張剤やステロイドホルモンの投与が有効とされたこともあつたが、右投与による治療効果と自然寛解の結果との間に有意差が認められないため、現在においては、治療効果は否定的に解されている。

さらに、全身状態の不良な未熟児にステロイドを投与することによる副作用の危険(感染に対する抵抗力弱化の虞れ等)も指摘されている。

2 光凝固法について

光凝固法は、昭和四三年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号(甲六)において、天理病院の永田医師らによつて、本症の治療というよりはその進行阻止のため提唱されたものである。

右報告によれば、生下時体重一、四〇〇グラムと一、五〇〇グラムの未熟児二名に対して昭和四二年三月および五月に光凝固を施行したところ、頓座的に病勢が停止した、とされている。

永田らは、右報告の結語として本症には自然寛解があり、光凝固施行の時期に問題はあるが、十分な眼底検査による経過観察により適当な時期を選んで行えば、重症の本症に対する有力な治療手段となる可能性がある、と述べている。

次いで、永田医師は、昭和四五年五月発行の「臨床眼科」二四巻五号(甲一一)において、四例の追加報告を行い、さらに昭和四七年三月発行の「臨床眼科」二六巻三号(甲一五)において、昭和四二年からの二五症例に対する光凝固の実施成績を発表し、施行適期と判定上の基準について提言した。

しかし、本法が出現して以来、本症の臨床経過の多様性と自然寛解の高率さに加えて、本法の副作用の態様と程度が考究されていないことから、治療の適応をめぐつてさらに論議が展開されることとなつた。すなわち、

(一) 本法によつても進行を阻止しえない症例があるほか、自然寛解するか進行するかの判断をつけがたいものや、活動期病変が停止ないし軽快するかにみえながら突如活動性となつて網膜剥離に至るものもあること

(二) 病理組織学的には光凝固による網膜組織の障害も存することが報告されていること

(三) 全国的にみて光凝固装置を保有する病院はなお少く、臨床例、治験例が十分に集積されていないこと

などから、本法は、昭和四九年現在においても、なお確立された治療法になつたとはいえず、依然追試段階にあつたものと考えられる。

五、眼底検査について

眼底検査は、早期における本症の発見を目的とするものであるが、これについては、検査者、検査時期、検査による症状の診定等の問題がある。

1 検査者

未熟児の眼底検査は、一般の眼科医が二、二か月の修練を経てはじめてなしうるものである。

昭和四五年当時においては、新生児、未熟児の眼底をみたことのない眼科医も少くなく、大学の教室でも、未熟児の眼底をルーチンにみる訓練をしていたところはない。

しかも、眼底検査は、眼底を観察することではなく、臨床例を重ねて、本症の発生、病変の程度、治療時期との関係、進行の見通しについての的確な判断をなしうるようになることでなければ、本症の早期発見と治療には役立たないのであり、かかる知識、経験および技能を有する検査者は、かなり限定された範囲の眼科医にすぎない。

まして、未熟児保育に携わる小児科医にこれを求めることは不可能を強いるに等しい。

2 検査時期

眼底検査は、べての未熟児に対し、常に可能であるわけではなく、IRDSがあって全身状態が不良のときなど身体的条件がこれを許さない場合には、施行すること自体が危険とされる。

また、対象児の未熟性が高度の場合には、中間透光体の混濁等のため眼底を診定可能な程度に透見しえないことが多い。

3 検査による症状の診定

未熟児の眼底が透見可能になつても、児によつては、なお乳頭が蒼白で縦楕円形を呈し、境界も不鮮明であるため、視神経萎縮と混同されることもある。

4 治療方法との結びつき

純粋な診断のみを目的とする場合は別として、眼底検査はそれ自体独立して意義を有するものではなく、本症の治療方法と結びついてはじめて意義を有する。

永田医師は、前記昭和四五年の報告において、光凝固施行の適期を本症が活動期Ⅱ期に入つた直後であるとしているが、本法は、なお追試の段階にあり、副作用等が十分吟味されていないうえ、施行の適期を常に診定しうるとも限らないのであるから、眼底検査を確実な治療法としての光凝固法と結びつけて論ずることは当を得ない。

5 検査自体による侵襲

眼底検査を倒像検眼鏡で行う場合には、未熟な眼底が強い光刺激にさらされることとなるため、これが本症発生の誘因の一つになる可能性もある。

六、各原告らの臨床経過

(被告日赤)

1  原告森

(一) 出生および分娩

(1) 分娩予定日は昭和四五年一二月一三日であつたが、同年一〇月九日午前七時三〇分ころ、静岡赤十字病院産婦人科にて二卵性双生児の第一子として出生。

(2) 在胎週数は三一週。

(3) 出産は異常(骨盤位)であり、双胎第二子は、出生後ただちに保育器に収容されたが、約九時間半後に死亡。

(二) 入院以後の経過

(1) 出生日の午前七時四〇分ころ、同病院小児科未熟児室に入院。

(2) 入院時の体重は一、五八〇グラム、体温は三五度以下、脈拍は毎分一四三(以下「毎分」を省略する。)、呼吸数は毎分五六(以下「毎分」を省略する。)。

(3) 入院時の全身色は正常であつたが、呼吸促迫と顔面および四肢末端の強度のチアノーゼが認められたので、ただちに酸素、温度および湿度を与えるため保育器(アトムⅤ―五五型)に収容された。

(4) 収容後の同日午後三時ころ、呼吸が停止し、全身に強度のチアノーゼが出現したが、胸部マツサージにより回復。しかし、呼吸困難または断続的な呼吸停止が一〇月一八日(日齢八日目、以下「日齢」を省略する。)ころまで反復し、その後漸次軽快したが、呼吸不整は一一月二七日(五〇日目)まで続いた。

(5) チアノーゼは、四肢末端と口周囲に著明で、出生直後から一〇月二〇日(一二日目)ころまで強度であつたが、一〇月三〇日(二二日目)ころには口唇に軽度に存するのみとなり、その後漸次消失した。

(6) 体温は、一〇月一二日(四日目)ころから一〇月一七日(九日目)ころまで低温が続き、哺乳力は不良のため、鼻腔栄養が開始されて一一月九日(三二日目)まで実施された。

(7) 浮腫は、出生直後全身に現われて強度であつたが、一〇月一五日(七日目)ころには消失した。

(8) 右のような状態に鑑み、ムルヨノ医師は、出生当日に重症報告(入院患者が重症で、生命の危険が存するとき、緊急事態に対処するため、当直医、当直婦長その他関係者に患者の状態を報告し、その注意と協力を求める同病院独特の制度)をなし、全身状態の安定した一一月九日にこれを解除した。

(三) 保育器収容期間および酸素投与量

(1) 保育器収容期間は、初回入院時には、出生日から一一月一七日(四〇日目)まで。

(2) 酸素投与量は、原告森の全身状態に応じ、かつ本症に罹患しないよう調整され、次のように漸減された。

イ 一〇月九日―一〇月二〇日

午前一〇時

毎分五リツトル(以下「毎分」を省略する。)(四四パーセント)

ロ 一〇月二〇日―一〇月二九日

午前一〇時

三リツトル(三四パーセント)

ハ 一〇月二九日―一一月一〇日

午前一一時三〇分

二リツトル(三〇パーセント)

ニ 一一月一〇日―一一月一二日

午前一一時

一リツトル(二五パーセント)

(四) 再入院時の臨床経過

(1) 原告森は、一二月三日には体重二、八七〇グラムに成長し、全身状態も良好となつたため、一二月五日(五八日目)に退院した。

(2) ところが、昭和四六年一月一八日、急性気管支炎が発病したため再入院したが、入院時の体温は四〇度で喘鳴と呼吸困難を伴い、体調がきわめて悪かつたため、ただちに保育器に収容された。

(3) 保育器収容期間は二月一日までであるが、チアノーゼと呼吸困難が認められたので、生命維持のため、次のとおり酸素が投与された。

イ 一月一八日―一月二七日

午後一時

三リツトル(三四パーセント)

ロ 一月二七日―二月一日

午前九時四〇分

二リツトル(三〇パーセント)

(4) 以上により症状が軽快しため、二月九日に退院した。

(五) 本症の診断

(1) 昭和四六年四月九日に、同病院眼科の伊予田医師により本症のため視力回復困難と診断された。

(2) 同年九月二二日に、慶応義塾大学附属病院眼科の中野医師により同旨の診断がなされた。

2  原告大池

(一) 出生および分娩

(1) 分娩予定日は昭和四六年三月二五日であつたが、同年一月一〇日午後八時五八分ころ、静岡赤十字病院産婦人科にて出生。

(2) 在胎週数は三〇週。

(3) 母みち子(当時三五年)は、同病院同科において糖尿病の治療を受けていたが、昭和四五年一二月一四日に水様性帯下を認め、同日早産の疑いにより入院したが、諸検査の結果血糖異常を認めたので、ただちに経口糖尿病薬の服用を再開し、血糖の正常化に努めるとともに、早産を防止するよう担当医が全力を尽したが、予定日より約二か月早く分娩した。

(二) 入院以後の経過

(1) 出生日の午後九時ころ、同病院小児科未熟児室に入院。

(2) 入院時の体重は一、六〇〇グラム、体温は34.9度、脈拍は一四六、呼吸数は五二。

(3) 仮死状態で出生したため、ただちに酸素吸入を施行し、約三分後に啼泣を認めた。その後保育器(アトムⅤ―五五型型)に収容されたが、口周囲および四肢末端にチアノーゼが著明で、呼吸は腹式呻吟性呼吸であり、全身に強度の浮腫があつた。

(4) 入院時から一月一八日(九日目)ころまで断続的な呼吸停止が認められ、一月二八日(一九日目)ころまで呼吸不整が続いた。また、呼吸は浅表・促迫であり、一月一一日(二日目)には八〇ないし一一〇を示し、呼吸促迫は一月一七日(八日目)まで続いた。

(5) チアノーゼは、四肢末端および口周囲に著明で、出生直後から一月一六日(七日目)ころまで強度であつたが、一月二一日(一二日目)には軽度に存するのみとなり、その後漸次消失した。

(6) 浮腫は、入院直後から一月一七日(八日目)ころまで著明であつたが、その後軽減した。

(7) 合併症として高ビリルビン血症(黄疸)が発症したため一月一六日(七日目)から一月二一日(一三日目)まで光線療法を受けた。

(三) 保育器収容期間および酸素投与量

(1) 保育器収容期間は、出生日から二月一七日(三九日目)まで。

(2) 酸素投与量は原告大池の全身状態に応じ、かつ本症に罹患しないよう調整され、次のように漸減された。

イ 一月一〇日―一月一六日

午後五時三〇分

五リツトル(四四パーセント)

ロ 一月一六日―一月二八日

午後六時

三リツトル(三四パーセント)

ハ 一月二八日―二月一日

二リツトル(三〇パーセント)

ニ 二月二日―二月一五日

午後〇時二〇分

一リツトル(二五パーセント)

(四) 退院以後の経過

(1) 原告大池は、三月二二日。(七二日目)に、体重二、八二〇グラムとなつて退院した。

(2) 退院後、四月二三日と六月二五日に育児相談のため来院し、小児科部長小川正夫医師の指導を受けた。

(五) 本症の診断

昭和四六年四月二三日に、同病院眼科の伊予田医師により本症と診断された。

(被告厚生連)

3 原告石川

(一)  出生および分娩

(1) 分娩予定日は昭和四六年一月二日であつたが、昭和四五年一〇月二六日午前一〇時一九分ころ、庄司産婦人科医院にて一卵性双生児の第一児として出生。

(2) 在胎週数は三一週。

(3) 母玖美子(当時二八年)は、初産であり、合併症として妊娠貧血症があつた。

(二)  入院以後の経過

(1) 出生日の午後三時一〇分ころ、清水厚生病院未熟児室に入院。

(2) 入院時の体重は一、四一六グラム、体温は33.3度、脈拍は一一二、呼吸数は五七。

(3) 入院時の全身色は赤色であつたが、四肢末端に強度のチアノーゼが認められ、下肢および外陰部に浮腫があり、活動力が弱く、啼泣がなく、呼吸も不規則であつたため、ただちに保育器(アトムⅤ―五五型)に収容された。

(4) チアノーゼは、一〇月二八日(三日目)まで持続的に認められ、その後僅かに認められたが、一一月一八日(二四日目)に消失した。

(5) 浮腫は、入院後全身にひろがり、一〇月二七日(二日目)に最高となり、一〇月二九日(四日目)ころから漸次軽減し、一一月二日(八日目)に消失した。

(6) 黄疸が一〇月二七日(二日目)に出現し、一一月一日(七日目)から軽度となり、一一月一六日(二二日目)に消失した。

(7) 呼吸不規則は、一二月八日(四四日目)まで続いた。

(8) 栄養補給は、一〇月二九日(四日目)から一二月一日(三七日目)まで鼻導カテーテルにより行われ、一二月二日(三八日目)から経口に切換えられた。

(9) 榊原医師は、一一月二五日(三一日目)に、同病院眼科の懐良医師に原告石川の眼底検査を依頼し、同日検査が行われたが、異常は認められなかつた。

(三)  保育器収容期間および酸素投与量等

(1) 保育器収容期間は、入院日から一二月九日まで。

(2) 器内の温度は、次のように調整された。

イ 一〇月二六日―一一月一五日

三二ないし三三度、七〇パーセント

ロ 一一月一六日―一二月九日

三二度、七〇パーセント

(3) 酸素の流量および濃度は、特に留意し、全身症状に応じ、次のように漸減された。

イ 一〇月二六日―一一月三日

2.5リツトル

ロ 一一月四日―一二月一日

2.0リツトル

ハ 一二月一日―一二月七日

1.0リツトル

ニ 一二月八日 0.5リツトル

(4) 器内酸素濃度は、定期的に一日三ないし四回ベツクマン濃度計を用いて測定され、当日の最高値がカルテに記載されていた。

右記載によると、最高は一一月三日の三四パーセント、次いで一〇月二八日、一一月六日、一一月七日および一一月二六日の各三〇パーセントであり、その余の日はいずれも二〇パーセント台である。

(四)  退院以後の経過

(1) 原告石川は、一二月二六日(六二日目)に、体重二、七九八グラムとなつて退院した。

(2) 退院後、乳児検診のため毎月一回来院し、発育経過を観察したが、体重増加、哺乳力とも良好であつた。

(五)  本症の診断

(1) 昭和四六年三月二六日、乳児検診に際し、母玖美子から「目が見えないようだ。」と訴えられたため、榊原医師が診察したところ、異常を認めたので、ただちに同病院眼科に受診させた。

(2) 同日、同病院眼科の林医師は、原告石川が本症に罹患している旨診断した。

(3) 榊原医師は、ただちに林医師と協議し、原告石川に国立小児病院眼科の植村医師を紹介し、転医、受診させた。

(4) 榊原医師は、同年四月一四日、植村医師より、原告石川は本症瘢瘍Ⅴ度により完全失明と診断した、との報告を受けた。

(被告静岡市)

4 原告塚本

(一)  出生および分娩

(1) 分娩予定日は昭和四八年四月一五日であつたが、同年二月九日午後八時四〇分ころ、静岡市立病院産婦人科にて出生。

(2) 在胎週数は三〇週。

(3) 母洋子(当時三〇年)は、妊娠回数三回(うち一回は人工流産)であり、今回は妊娠初期に悪阻と不正出血があつた。

(4) 出生時には全身に強度のチアノーゼがあり、仮死状態で、啼泣も呼吸も微弱であつた。

(二)  入院以後の経過

(1) 出生日の午後九時ころ、同病院小児科未熟児センターに入院。

(2) 入院時の体重は一、二八〇グラム、体温は低く、脈拍は徐脈であり、皮膚は菲薄で皮下脂肪の発達が悪く、爪も指頭に達せず、未熟度がきわめて強かつた。

(3) 四肢および口唇に強度のチアノーゼが認められ、呼吸も微弱かつ不規則であり、体動が乏しく、諸反射が欠如し、筋緊張も低下し、生命危険の状態であつたため、ただちに保育器(アトムⅤ―五五型)に収容された。

(4) 入院直後から呼吸状態が悪く、チアノーゼは全身性となり、三四ないし三五度の低体温が生後七二時間を経過しても持続し、呼吸浅薄、胸部陥没等の呼吸障害も持続し、低血糖、酸血症等が認められた。

(5) 二月一三日(五日目)からは無呼吸発作が出現し、チアノーゼ、剣状突起陥没が著明となり、徐脈、低体温、不活発、嘔吐等がみられ、二月二〇日(一二日目)ころまで一般状態はきわめて悪かつた。

また、高ビリルビン血症を併発し、光線療法を受けた。

(6) 二月下旬には呼吸状態がやや快復に向かい、体温も正常化に向かつたが、両肺に肺胞音が聴取され、皮膚は蒼白ないし亜黄疸色を呈し、体動は不活発であつた。

(7) 三月上旬には呼吸がほぼ正常化し、三月下旬には哺乳力も良好となつて体重増加もみられ、諸反射は正常に出現し、異常な眼球運動等はなかつたが、なお未熟児様顔貌、黄禍色皮膚を示していた。

(8) 四月上旬ころ鼻汁、鼻閉等の上気道感染症状が出現し、四月中旬ころには皮膚色が蒼白で、未熟児貧血をきたした。

(9) 栄養補給は、二月一一日(三日目)から鼻導により行われ、三月一六日(三六日目)から徐々に経口哺乳が開始された。

(10) 水野医師は、四月一七日に、同病院に嘱託として定期的に来院していた静岡県立中央病院眼科の藤堂医師に原告塚本の眼科検診を依頼し、同日検査が行われた。

(三)  保育器収容期間および酸素投与量等

(1) 保育器収容期間は、入院日から四月五日まで。

(2) 器内の温度と湿度は、次のように調整された。

イ 二月九日―二月一一日

三二度、七〇パーセント

ロ 二月一二日―二月二八日

三三度、八〇パーセント

ハ 三月一日―三日六日

三一度、七〇パーセント

ニ 三月七日―三月三〇日

三〇度、六五パーセント

ホ 三月三一日

二九度、六五パーセント

ヘ 四月一日 保育器半開

ト 四月二日以降 同全開

チ 四月五日 コツトに移床した。

(3) 酸素の流量および濃度は、全身症状に応じ、次のように調整された。

イ 二月九日―二月一八日

3.0リツトル

ロ 二月一九日―三月七日

2.0リツトル

(うち二月二五日のみ

1.5リツトル)

ハ 三月八日―三月九日

1.0リツトル

(4) 器内酸素濃度は、一日三ないし四回ベツクマン濃度計を用いて測定され、当日の最高値がカルテに記載されていた。

右記載によると、最高は二月二五日の四四パーセント、次いで二月一七日の四一パーセント、さらに二月一五日および二月二四日の四〇パーセントであり、その余の日は、三月九日の二八パーセントを除き、いずれも三〇パーセント台である。

(四)  本症の診断

(1) 前記四月一七日の眼科検診に際し、藤堂医師により、本症と診断された。

(2) 水野医師は、ただちに原告塚本の両親に連絡し、翌四月一八日、両親に対し、本症について説明するとともに、国立小児病院を紹介し、同月二三日午前一〇時、静岡市立病院を退院させるとともに、ただちに国立小児病院眼科に移送して転院させた。

七、未熟児保育の困難性

1 未熟児は、それ自体非常に危険な要素を有して出生し、現在においても、全新生児の一〇パーセントに満たない未熟児の死亡が全新生児の死亡の過半数を占めているうえ、肺拡張不全、IRDSその他の呼吸器疾患、出血性疾患、そして高ビリルビン血症など、死亡に至るかまたは死亡に至らないまでも永続的脳障害を残す危険性の高い疾患の出現頻度も、成熟新生児に比べて著しく高い。

未熟児は、満期産児に比べると、神経の髄鞘形成が不完全であり、自主呼吸を行うのに必要な肺の組織学的な分化やガス交換を行うのに必要な肺細胞の発達も不十分であるため、生育に耐える条件は著しく不備である。

2 未熟児の眼については、網膜の内皮細胞増殖は在胎二八週以後の眼球にのみ存在し、その増殖が綱膜内層から内境界膜を通して硝子体に侵入する像は認められない、とされており、右所見は本症の初期変化の母体をなし、本症発生の素因をなすと考えられている。

そして、体重一、五〇〇グラム以下の未熟児の眼底は、左のような特徴的所見を示す(甲四)。

(一)  乳頭は著しく蒼白で、細長型または腎臓型を呈する。

(二)  眼底は、検眼鏡視野内において部分的にしか焦点が合わず、そこにみられる血管ことに動脈は狭細であり、縦方向に走行する。

(三)  周辺ことに耳側周辺網膜は灰白色あるいは蒼白を呈する。

(四)  著名な硝子体動脈遺残がある。

このような「未熟眼底」を示す児においては、本症は、胎外生活に入つた後、眼底血管が発育する際して不可避的に発生するものと考えられ、胎外生活に対する広義の適応異常と考えられる。

ちなみに、名古屋市立大学の未熟児病棟において昭和四五年一月一日から昭和四八年六月三〇日までの間に管理されていた未熟児について、本症の発生率を調査した結果は次のとおりである(戊一八の二)

生下時体重      発生率

一、〇〇〇グラム以下

2/2(一〇〇パーセント)

一、〇〇一ないし一、二五〇グラム

13/15(86.7パーセント)

一、二五一ないし一、五〇〇グラム

26/40(65.0パーセント)

一、五〇一ないし一、七五〇グラム

20/52(38.4パーセント)

在胎期間      発生率

三〇週未満16/18(88.9パーセント)

三〇ないし三三週

42/116(36.2パーセント)

また、成熟児や双胎児に発生する本症については、胎児期の要因や胎盤異常が素地になつていることは否定しえず、パツツが指摘するように、網膜耳側血管発達の個体差も重要な因子と考えられる。

3 酸素供給と本症との関係は、いまだ明確に解明されていないため、酸素投与の基準についても、

(一)  チアノーゼや無呼吸発作のある場合に限り、かつ短時間に限つて投与すべきである、という見解と、

(二)  一旦無酸素症に陥ると脳障害や脳出血を起こす可能性があるから、これを防止するため、原則としてすべての未熟児に投与すべきである、という見解が対立しているが、さらにゆるやかに、

(三)酸素濃度は六〇パーセント以下とし、通常四〇パーセント程度にとどめる、四〇パーセント以下にとどめ、極端に長期間投与しなければ、本症による危険はさほど大きくない、チアノーゼのあるときは、短時間一〇〇パーセントの濃度にしても、血中PO2は上昇しないので、本症による危険は少い、という見解も、酸素の使用制限から生ずる弊害を避けようとする立場から主張されている。

4 呼吸障害、とくにIRDSに対する酸素療法には二律背反の悩みがある。すなわち、酸素供給が不十分であると、救命しても脳性麻痺や精神薄弱となる危険があり、酸素供給が十分であると、本症を発生させる危険がある。

マクドナルド(Mc'Donald)の調査によると、酸素供給を一〇日以内で打ち切つた未熟児には脳性痺麻が多発し、他方酸素を一一日ないし二五日間十分に供給した群には本症が多発した、とされている(戊二二)。

5 このように、未熟児に対する適正な酸素治療に関して、吸入気体の酸素濃度を低下させることは、本症の発生防止のみに着目すれば有効といいうるが、それだけで本疾を絶滅させることはできないうえ、生命や脳に対する危険を増大させる結果となることに留意すべきであり、かかる困難な問題の生ずる根底には、児の未熟性があることを確認すべきである。

八、各担当医師の注意義務の判断基準

被告ら病院の各担当医師の注意義務を判断するための一般的基準としては、当時の医療水準と未熟児保育の困難性とを特に考慮すべきである。

1 医療水準

(一)  各原告らに対する各医療行為のなされた時点を基準とすべきである。

(二)  小児科医の平均的一般的な医療水準を基準とすべきである。

未熟児保育を担当する医師は小児科医であり、被告ら病院の各担当医師もすべて小児科医である。

本症が眼科的症状を呈するからといつて、眼科医の医療水準を基準とすべきではない。

(三)  医療水準は、法律上の責任基準としてのそれであるから、ある治療法が医療水準に達しているというためには、これが、種々の医学的実験を経た後、医学界においてその合理性と安全性が一般的に承認されて確立し、かつ当該医療行為当時、平均的な臨床医において具体的に施術されていなければならない。

従つて、専門の研究者が特定の疾病の治療法を学界および専門誌に発表していたとしても、これがいまだ医学的実験による追試の段階にとどまり、その合理性と安全性が医学界一般に承認されていない場合には、右治療法は未だ医療水準に達しているとはいえない。

(四)  本件各医療行為のなされた当時、本症の原因、対策等につき眼科的研究発表が一部の専門研究者からなされてはいたが、当時わが国の一般小児科医が依拠していたとみられる昭和四四年一二月発行の高津忠夫監修「小児科治療指針」(改訂第六版)(戊三)に本症についての記載がないことからも明らかなように、前記専門研究者の発表は、なお一般小児科医に普及・実施されていなかつたものである。

また、本件各医療行為当時はもとより、昭和四九年現在においても、本症の予防および治療法として、その合理性と安全性が医学界一般に承認されたものはなかつたのが実情である。

2 未熟児保育の困難性

(一)  七に前述したとおり、未熟児はそれ自体きわめて危険な要素を有し、死亡率が高く、またIRDS等により、救命しても永続的な脳障害等を残す危険性も高いため、個体差に応じ時々変化する病状に対処するのはきわめて困難であり、未熟児に対する医療行為の適否は、一律かつ形式的な基準をもつて判断さるべきではない。

(二)  被告ら病院の各担当医師は、右困難の中にあつて、各原告らの救命、永続的的脳障害の排除等に最大の努力を払つたのである。

九、酸素管理上の注意義務について

1 各原告らに対する酸素投与の必要性

六に前述したとおり、原告らはいずれも出生当時からチアノーゼ、呼吸障害等を有し、その治療のため、酸素投与は不可欠であつた。

2 酸素濃度

本件各医療行為当時、未熟児管理に関し一般的に遵守さるべき基準とされていたのは、日本小児科会新生児委員会が昭和四三年一〇月に発表した「未熟児管理に関する勧告」(戊一の二に収載された「未熟児管理規準」であるが、これには酸素濃度をどの程度に保つべきかについて何らの制限も設けられておらず、各担医師の載量に委ねられていたものと考えられる。

3 六に前述したとおり、各原告らに対する酸素投与は、各担当医師が各原告らの全身症状に応じ慎重に調整していたものであり、次第に外気の状態に近づけるよう徐々に濃度を減じていつたのである。

4 従つて、各担当医師らは、酸素管理上の注意義務に違反していない。

一〇、眼底検査義務について

1 昭和四九年現在においては、未熟児の保育管理に当る小児科医にも定期的眼底検査の必要性が認識され、大学附属病院その他人的物的施設の整備された総合病院等を中心に、定期的眼底検査を実施する機関が増加しつつあるのが現状である。

しかし、具体的なある時点におけるある医療行為が悪い結果を招来したとき、医師に過失責任を問うことができるか否かは、当時の医療水準、当該医師のおかれていた社会的・地域的環境、医療行為そのものに内在する特異な性格などを総合的に考慮して、当該医療上の措置または不措置が社会的非難に値いするか否かによつて、これを決すべきであり、現在における医学的知識や医療水準を尺度として、過去の医療行為の適否を判断すべきではない。

2 原告森、同石川および同大池に対する各医療行為がなされた当時におけるわが国の小児科医の平均的認識は、次のような内容であつた。

(一)  未熟児に発病する眼疾患としてRLFが存在し、これが未熟児に対する酸素療法との関係で問題にされてきたこと

(二)  従つて、未熟児に対する酸素投与に際しては、一般に高濃度(おおむね四〇パーセントを超える濃度)の酸素を警戒すべきであること

(三)  一旦酸素を投与したときは、急激な中止は危険であるから、漸減して中止すべきであること

(四)  右のような注意を払えば、RLFの発症する危険はないと

もつとも、植村医師等一部の眼科医は、昭和四一年ころから、欧米における酸素使用の制限以来過去の疾患となつたといわれ、わが国においてもその発症の危険性はないと一般に認識されていた本症が僅かではあるが乳幼児の眼底所見より見出されること、その早期発見と早期治療のためには定期的眼底検査が必要であることなどを発表しており、また一部の医療機関においては、未熟児の全身管理の一環として、また本症の早期発見のためにも、退院時までに一回程度の眼底検査を実施していたが、いまだ一般臨床小児科医に広くその必要性が認識されるに至つておらず、前記各医療行為当時の一般的医療水準においては、定期的眼底検査の実施は未熟児保育上の確立された医療措置とはなつていなかつたものである。

3 原告塚本に対する医療行為がなされた当時におけるわが国の小児科医の平均的認識や一般的医療水準も、右と基本的に異なるものではなかつた。

4 従つて、各担当医師らには、眼底検査義務に違反した過失はなかつたものというべきである。

一一、光凝固の実施義務について

1 新薬あるいは新しい治療法が開発された場合、これが広く応用されてその時代の一般的医療水準に達するまでには、通常、(一)動物実験、(二)臨床実験、(三)追試、(四)教育・訓練、(五)一般的医療水準への到達、という段階的経過を必要とし、特に(三)の段階において通常比較的長期にわたる観察が必要とされ、この段階において有効性と副作用の少なさが判断され、広く一般に応用しても差支えないと判断された場合に、はじめて一般医師に対する教育と訓練が実施される。

2 光凝固法の本症に対する応用に関して特徴的なことは、動物実験が全く行われないまま、ただちに臨床実験が行われたことであるが、その後本症の研究者らにより追試がなされているので、以下、光凝固法の応用について年代順に考察する。

(一)  昭和四三年

四の2に上述したように、本法を本症の治療に最初に応用したのは、天理病院の永田医師であり、その結果をこの年に発表しているが、同医師自身術後の経過について確たる自信があつたわけではなく、従つて右発表においてもこれを本症に対する治療の可能性の問題として捉えているのであり、本症例はまさしく臨床実験第一号であつたといえよう。

(二)  昭和四五年

四の2に前述したように、永田医師は、この年の五月に四症例の追加報告を行つているが、右報告の中で、同医師は、「本法の成否を決定する最も重要な要因は実施の時期である。」とし、また、「以上の六例における治療経験から、重症の本症活動期病変の大部分の症例は、適切な時期に光凝固を行えば、その後の進行を停止せしめ、高度の自然瘢痕形成による失明または弱視から患児を救うことができることはほぼ確実と考えられるようになつた。」としながらも、「しかし、本法を全国的な規模で成功させ、わが国から本症による失明例を根絶するためには幾多の困難な事情が存在する。」と述べ、本法が当時ただちに全国いずれの病院においても実施可能なわけではないことを示唆している。

右追加四症例は、臨床実験第二号とみるべきであろう。

次いで、同医師は、同年一一月発行の「臨床眼科」二四巻一一号(甲一二)において、既報の昭和四二年の二症例と昭和四四年の四症例に、新たに光凝固を実施した昭和四四年の二症例と昭和四五年の四症例を加え、合計一二症例の結果を報告しているが、この中で、同医師は、一〇例に好成績を収めたが、二例には効果がなかつたことを述べ、結論として、本症に対する本法の施行は進行過程のある限定された期間内においてのみ治療効果を期待しうる旨述べるとともに、本症についての数少ない研究者を除き、わが国の一般眼科医が、いまだ本症の本態を真に理解し、未熟児の眼科管理の正しいあり方を知るに至つていないことを言外に認めている。

なお、同医師は、右報告の中で、「活動期のある特定時期に光凝固による治療を加えれば確実に治癒することも知つた」との表現を用いているが、当時は同医師以外に本法の追試報告をした者はなかつたのであるから、右はあくまで同医師自身の確信を述べたものにすぎないとみるべきである。

(三)  昭和四六年

この年には関西医科大学眼科教室の上原雅美らと九州大学眼科教室の大島健司らが、本症に対する光凝固法の臨床実験ないし追試の結果を眼科専門誌に発表している。

(1) 前者は、昭和四六年四月発行の「臨床眼科」二五巻四号(甲六五)であるが、これによれば、上原らは、永田らの提案にもとづき、昭和四四年一一月一例、昭和四五年に四例の光凝固の追試を行つたところ、五例中ともかく両眼とも進行を阻止しえたのは二例であつて、残り三例のうち二例は無効、一例は左眼がオーエンスⅡ度で阻止、右眼がⅣ度で無効であつた、と報告している。

右報告の中で、上原らは、本症の軽症例は自然治癒の傾向が著しく、経験症例でも光凝固の適応と考えられたものは、発症例の僅か8.3パーセントであり、従つて光凝固施行の適応の選定が問題となること、重症例は僅かな期間に進行して光凝固の時期を失するので甚だ厄介であること、一旦本症が発生しても果して重症な経過をとるものであるか否かの判定は必ずしも容易でないこと、特に極小未熟児においては眼底周辺の検査が困難であり、観察が可能となつたときには重症となつていて光凝固によつても病勢を阻止しえない症例も存在することを指摘している。

(2) 後者は、昭和四六年九月発行の「日本眼科紀要」二二巻九号(戊五)であるが、これによれば、大島らは、昭和四五年一月から同年一二月までの間に、二三例の本症患者に対し、実験的に光凝固を実施したのであり、一般的な治療とは区別していることが知られる。

以上、昭和四六年までの眼科の専門文献から明らかなように、当時は本症の実態が十分解明されておらず、その治療方法としても確実なものはなく、光凝固法も、余後を含めて本症に対し有効であるのか否か未知の状態にあつたといつてよく、特にその副作用については全く未知であり、すべて爾後の経過観察に俟たなければならない状態にあつたというべきである。

このように、未だ効用や副作用が十分確認されていない段階において、新しい治療法を他の一般臨床医が用いるべきであるとか、これを開発した者のところへ自己の患者を転医させるべきであるとかいうことは、医学の常識に著しく反する考え方である。

(四)  昭和四七年

この年には、本症に対する光凝固の追試報告が徐々に増え、その長所と短所をめぐる報告が現われるようになり、新しい治療法として冷凍凝固が発表された。

(1)兵庫県立こども病院小児科の田淵昭雄らは、昭和四七年七月発行の「臨床眼科」二六巻七号(戊八)において、光凝固術施行後五日目に死亡した未熟児の眼の病理組織学的検査の結果を報告し、その中で、「光凝固を行つた部分は色素上皮層が破壊され、色素が内層に飛びちつている所見を認めた。全体として内顆粒層の配列の乱れは少いが、外顆粒層の乱れは著しい。内顆粒層や内網状層にまで障害を受け、その部の細胞数の数の減少およびPyknosisをきたしている所もあつた。網膜全体が、菲薄化し、破壊されたところもあつた。脈絡膜は肥厚し、著明な出血がみられた。」と述べ、「光凝固によつて血管の増殖を阻止しえたとしても、こういつた著しい網膜組織の破壊は完全には修復されないまま残るであろうから、その凝固部の網膜機能は著しく低下することが明白である。」と、その弊害の大きいことを強調している。

また、田淵らは、一〇例に対し光凝固を行つた結果を併せて報告し、うち二例については進行を阻止しえなかつたが、そのうち一例は発症時よりきわめて急速に進行したものであり、他の一部は来院時に活動期Ⅳ期を呈していたものである、と述べ、本法の適応時期について、なお進行しそうなⅡ期の後期に施行するようにしている、と述べているが、これらのことは、本法が絶対的な治療法でないこと、その適応時期について確立した見解のないことを示している。

(2) 国立小児病院眼科の植村医師は、昭和四七年六月発行の「小児科臨床」二巻六号(甲一七)において、光凝固に対し、副作用など障害の点を考慮した控え目の態度を示している。

(3) 名鉄病院の田辺吉彦らは、昭和四七年五月発行の日眼会誌七六巻五号(甲六二・戌七八)において、二三例の光凝固結果を報告しているが、これを追試の意味で発表すると明言し、二例の無効例を報告した後、「発育途上の未熟な眼球に光凝固を行うことが将来の発育にどのような影響を及ぼすかはまだ観察がなく、自然寛解の可能性のある眼に光凝固を行うことに疑問がなくはないけれども」と留保しつつ、症例によつては活動期Ⅱ期においても光凝固を行うべきだと考えている旨述べているが、このことは、本法の適応時期について研究者間に統一した見解のないことを示している。

(4) 国立大村病院眼科・長崎大学眼科教室の本多繁昭は、昭和四七年一月発行の「眼科臨床医報」六六巻一号(甲六一・戌七九)において、昭和四五年七月から昭和四六年六月までの間に観察した未熟児のうち一〇例に対し光凝固または凍結凝固を施した結果を報告しているが、その中で、「ほとんどの例はオーエンスやリース(Reese)の分類の経過をとるが、時として異常に速やかに進行したり、あるいは境界線(demarcation line)の一か所だけが異常に後極へ進行して黄斑部へ近づく例もある。」と述べ、また「凝固は新生血管の硝子体への進入以前に行つた方がよいと思う。」と述べており、このことは、特殊な臨床経過を辿る本症が存在すること、光凝固の適応時期に関し定説のないことを示している。

(5) 東北大学眼科教室の山下由紀子は、昭和四十七年三月発行の「臨床眼科」二六巻三号(甲一六)において本症に対する冷凍凝固術の臨床実験の結果を報告しているが、その中で、「光凝固術にしろ、冷凍手術にしろ、手術自体による後遺症が起きるか否かが不明な現在では、活動期Ⅲ期に入つても、厳重な眼科的管理の下で、できるだけ自然治癒を待つてから手術をすることが望ましく思われる。」と述べ、適応時期について他の多くの研究者とは異なる見解を示している。

(6) 永田らは、四の2に前述したように、この年に昭和四二年以来の二五症例に対する光凝固による本症治療についての総括的な報告を行つているが、その中において、「最近はオーエンスⅡ期のはじめから観察できる症例で上述の総合判定が明らかにⅢ期への移行を予測させる症例においては、Ⅱ期の終りころ、すなわち従来よりやや早期に光凝固を施行する方針をとるようになつた。」と述べ、適応時期についての見解を若干改めている。

また、永田は、学会発表に際しての質疑応答において、本症が自然治癒傾向の強い疾患であることを再確認するとともに、自然治癒傾向を正しく見極め、過剰侵襲を避け、真に光凝固の必要な症例に時期を失せず施術するためには、かなりの経験の蓄積を必要とする旨答えている。

以上が昭和四八年初めまでの光凝固法に対する眼科の専門文献の概観であるが、この当時においても、本症の専門的研究者の間に意見の相違があり、本法に関してはなお解明しえない問題点のあることが明らかであり、さらに急速に進行する型の本症の存在が報告され、研究者自身試行錯誤の段階にあることを物語つている。

3 以上の結果からみて、光凝固法の本症に対する応用は、各原告らに対する医療行為がなされた当時、なお追試の段階にあつたというべきであり、一般的医療水準に到達していなかつたことは明らかである。

4 従つて、被告ら病院の各担当医師には、各原告らに対して光凝固を実施すべき義務はなかつたものであり、右義務の存在を前提として、各原告らを光凝固の実施可能な医療機関に転院させるべきであるとの主張もまた失当というべきである。

一二、結論

以上のように、被告ら病院の各担当医師は、本件各医療行為がなされた当時における医療水準に従い、臨床医としての最善の注意義務を果たしているのであり、不幸にも各原告らの失明という結果が発生してはいるが、これについて過失責任を問われるいわれはないものというべきである。

(被告らの主張に対する原告らの認否および反論)

一、被告らの主張一について

1 本症の実態については、テリー以後多くの臨床的、実験的研究が行われてきたが、一九五一年にキヤンベルがその病因として保育時の酸素過剰説を唱えその後多くの疫学的研究や動物実験により、この説が確認されたため、本症が多発して多数の失明児を出したアメリカにおいて、一九五四年、次のような診療基準が示された。すなわち、

(一) 未熟児に対する常例的な酸素投与を中止する。

(2) チアノーゼまたは呼吸障害の兆候を示すときにのみ酸素を投与する。

(三) 呼吸障害がとれたらただちに酸素療法を中止する。

右基準が実行されたため、酸素の使用は厳しく制限され、本症の発生頻度は激減した。

2 その後、アベリーらにより、IRDSによる死亡率の増加が報告されたため、未熟児の酸素療法に大きな変革が生じ、呼吸障害児には高濃度の酸素が投与されるようになつたことから、一九六七年、アメリカの国立失明協会の主催により未熟児に対する酸素療法を検討するための会議が開かれ、ここにおいて、次の二点が強調された。

(一) 酸素療法を受けた未熟児はすべて眼科医により検査さるべきである。

(二) 未熟児は生後二年までは定期的に眼の検査を受ける必要がある。

3 わが国の眼科界における本症研究の歴史

(一) 昭和二四年から昭和三九年まで

(1) 本症の症例がわが国の眼科界に報告されたのは、熊本医科大学眼科の三井幸彦らが昭和二四年五月発行の「臨床眼科」三巻五号(甲四一)にテリーのいうRLFの一例を報告したのが最初と思われる。

(2) その後、ほぼ毎年学会や論文等に本症が取上げられたが、順天堂大学眼科の中島章が、昭和三五年二月発行の「臨床眼科」一四巻二号において、わが国においても向後極小夫熟児の保育が増加すると思われるので、酸素使用に際しては、眼科医、小児科医が緊密な連絡をとつて細心の注意を払いながら行うことが重要である、と説いたこと、弘前大学の工藤高道らが、昭和三六年八月発行の「臨床眼科」一五巻八号(甲四九)において、本症三例を報告するとともに、オーエンスの臨床経過の分類を詳述し、早期発見、早期治療の重要性を説き、その予防のため、産科医、小児科医等の協力観察と本症に関する知識の普及をはかる必要性を説いたこと、弘前大学の松本和夫が昭和三九年二月発行の「臨床眼科」一八巻二号(甲一)において医師の協力体制と本症発生の予防を強調したこと、福島医大眼科の保坂明郎が同年四月発行の「臨床眼科」一八巻四号(甲五〇)において眼底検査の重要性を説いたことなどに注目すべきである。

(二) 昭和三九年から昭和四一年まで

このような歴史的背景のもとに、植村医師の精力的な一大啓蒙運動がなされたのがこの時期であり、同医師の業績は次のようなものであつた。

(1) 昭和三九年、日本眼科学会の弱視のシンポジウムにおいて本症の発生が決して稀ではないことを報告した(甲五一ないし五三)。

(2) 昭和四〇年六月発行の「小児科」六巻六号(甲二)において、近年眼科外来を訪れる本症患者の数が次第に増加していることを報告し、早急に産科医、小児科医、眼科医が一体となつて本症の実態を把握し、その予防対策、早期発見、早期治療を確立すべきことを強調し、本症の原因として酸素療法が重要な関係をもつ点には異論がない、と述べ、本症の治療法として、活動期の可逆性のある時期に発見し、その眼底所見にもとづいて適当な酸素供給をなし、ACTH、副腎皮質ホルモンの投与により治癒しうるものであり、その鍵は生後より三か月目までの反復する眼底検査にほかならない、と述べてその必要性を強調した。

(3) 昭和四〇年一一月、国立小児科病院開設とともに、小児科の奥山和男医師らと協力して、未熟児の定期的眼底検査を施行し始め、同年秋の第一九回臨床眼科学会において、未熟児の眼科的管理の必要性について講演し、その抄録は「臨床眼科」昭和四一年五月号(甲三)に掲載され、また眼科的管理を始める病院も出てきた。

なお、この年の一月には、「小児眼科トピツクス」を発行している。

(4) 昭和四一年秋の第二〇回臨床眼科学会においても、未熟児の眼科的管理の必要性を再度強調するとともに、国立小児病院における体験から、本症が未熟児の16.6パーセントに発生していることや活動期症例の実態を報告し、活動期Ⅱ期に進んだ二例のうち一例が副腎皮質ホルモン投与により治癒し、一例が瘢痕期Ⅱ度になつたこと、本症が酸素濃度四〇パーセント以下においても発症することがあること、現段階では一週一度の定期的眼底検査をすべきであることを述べ、その講演録は「臨床眼科」昭和四二年二月号(甲四)および「医療」同年八月号(甲五)に掲載され、多くの眼科医、小児科医の目に触れた。

また、この年には、竹内、奥山両医師とともに、本症に関する小児眼科のグループ・デイスカツシヨンを行い、その内容は「眼科」一〇巻に掲載された。

(三) 昭和四一年から昭和四三年まで

この時期には、全国各地の病院に未熟児の眼科的管理が普及していつたが、その数例を挙げれば、次のとおりである。

(1) 九州大学

小児科では昭和三六年から未熟児の眼障害の早期発見のために退院時に眼科医の協力により受診させ、眼科的一般検査を行つてきた(戊一七の二)。

しかし、本症をはじめとする眼疾患の早期発見のためには入院中においても一ないし二週に一度の定期的眼底検査が必要なことを痛感し、昭和四一年ころからこれを実施し始めたが、論文は昭和四三年一月発行の「小児科診療」三一巻一号において公刊された。

(2) 天理病院

永田医師は、植村医師の報告に啓発され、昭和四一年八月から小児科医と協力して未熟児の眼科的管理を始め、必要最小限の酸素を小児科医が投与し、これを中止した後、生後約一か月くらいから七ないし一〇日に一度定期的に眼底を検査した。

昭和四二年の三月と五月に二症例に対し光凝固を施して成功を収め、これを同年秋の第二一回臨床眼科学会に報告し、その講演録は昭和四三年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号(甲六)および同年一〇月発行の「眼科」一〇巻一〇号(甲九)に掲載された。

(3) 関西医科大学

塚原医師は、昭和四二年三月ころから、同大学附属病院未熟児センターの小児科医の協力を得て、生後二、三日目からの定期的眼底検査を始め、入院中は週一回、退院後は症例により二、三週に一回の割合で行つていた。

本症の自然寛解率の高さに着目し、小児科医と眼科医が緊密に連絡して可能な限り酸素を制限し、自然寛解を促す方法は、その後も同大学の方針となつている。

これらのことは、昭和四三年年秋の第二二回臨床眼科学会において報告され、その講演録は昭和四四年一月発行の「臨床眼科」二三巻一号(甲一〇)に掲載された。

(4) 名鉄病院

昭和四三年中には定期的眼底検査を始めていたことが窺われる(戊六)。

(5) 旧日赤産院来熟児センター

昭和四二年後期から眼底検査が行われ始めた(戊一八の六)。

(6) 大阪市立小児保健センター・大阪市立大学

昭和四二年後期には眼底検査を実施していた(甲五九)。

(四) 昭和四三年から昭和四四年まで

前述のような眼科界における本症の認識経過から、さらに小児科界、産科界における本症に対する認識知見の普及、向上とその後における研究の進歩により、この時期においては定期的眼底検査が常例化し、未熟児センター等の施設においては、眼科の関与による定期的眼底検査を主体とする眼科的管理はもはや常識となつた。

昭和四二年一一月には、植村、馬嶋両眼科医と奥山、竹内両小児科医らにより「未熟児の眼科的管理」をテーマとするパネル・デイスカツシヨンがなされ、その内容は昭和四三年一〇月発行の「臨床眼科」二二巻一〇号(甲六〇)に発表された。

(五) 昭和四四年秋ころ以降

この時期には、本症に対する治療法としての光凝固法が確立した。

(1) 永田医師は、同年六月に三例、同年七月に一例の光凝固を行い、劇的な進行停止と治癒を目の当りに見て、本症は適切な適応と実施時期をあやまたずに光凝固を加えることによつてほとんど確実に治癒しうるものであり、失明や高度の弱視を防止することができるとの確信をもつに至つた(甲一一)。

先の二例とこの四例の経験にもとづき、同医師は、眼底検査は生後三〇日目ころから始めても遅すぎないこと、右時期以降一ないし二か月観察すべきこと、光凝固はオーエンスⅢ期となつて網膜剥離を起す直前に実施すべきこと等を、診療規準として述べ、本症は本法の適用により治療可能な疾患となつたと断言した。

なお、今回の四例中二例は他院から転院してきたものであるが、うち一例は福井赤十字病院からの転院例であり、この事実は、他の医師の本症に対する関心の高さ、光凝固設備のない病院で発症しても転院により失明を防止しううることを示している。

右四症例の成功は、同年秋の臨床眼科学会に発表された。

(2) 名鉄病院の田辺医師は、昭和四三年に天理病院を訪れ、永田医師から光凝固の実際を学び、自らも、昭和四四年二月から四月にかけて四症例に光凝固を施し、成功を収めた(甲六二、戊六)。

(3) 昭和四五年に入ると、九州大学附属病院と国立福岡中央病院において光凝固が適用され、多くの成功例を収めた(戊五)ほか、関西医科大学においては同年二月から九月にかけて五症例に施術され、適期になされたものはすべて成功した(甲六五)が、右経験は同年秋の臨床眼科学会に発表された。

同年には、松戸市民病院の丹羽医師が関東労災病院の深道医師の協力を得て光凝固に成功し(甲六五)、東北大学の斉藤、山下両医師も冷凍凝固法により成功を収めた(甲六五)ほか、永田医師が、前年秋の学会発表後六例(うち転医五例)に光疑固を施行して成功したことを昭和四五年一一月発行の「臨床眼科」二四巻一一号(甲一二)に発表し、局所麻酔による施術が可能になつたことを報告した。

また、名鉄病院の田辺医師は、同年中さらに一四例に光凝固を施して成功を収めた。

(4) 昭和四五年から昭和四六年にかけては、県立広島病院の野間医師が昭和四五年一月から昭和四六年八月までの間に一二例に施術して成功を収め、愛媛県立中央病院の宮本医師が昭和四五年五月から昭和四六年九月までの間に二例を徳島大学に転医させて光凝固を受けさせて成功し、国立大村病院の本多医師が昭和四五年七月から昭和四六年六月までの間に長崎大学との協力のもとに光凝固または冷凍凝固を実施して成功例を収め、兵庫県立こども病院においては、昭和四五年五月から昭和四六年八月まの間に一〇例に対して光凝固が適用され、急速に進行した一例と既に適期を過ぎていた一例を除き、成功を収めた(戊八)

(六) 昭和四六年以降

この時期には、ほとんどの大学病院、多くの総合病院において日常的に光凝固が実施されるようになつた(甲一五、甲一六、甲六六)。

4 わが国の小児科界における本症研究の歴史

(一) 昭和二九年

この年には、日本小児科学会第六八回東京地方会において、賛育会病院の馬場一雄、加藤正枝、藤井とし、大塚昭二各医師と東京医科歯科大学の大島祐之らにより、海外の文献によれば、早産児の一、六〇〇グラム以下のものに、RLFが一〇ないし二〇パーセント認められるので、三五名の早産児について眼底を調査したところ、そのうち五名に本症の初期症状を認めた、との報告がなされた(甲二九)。

(二) 昭和三〇年

北海道大学小児科の弘好文医師は、「小児科診療」一八巻一一号(甲三〇)に、次のような重要な報告を行い、医師の注意を喚起した。

(1) アメリカでは最近RLFが増加している。

(2) 初期所見として、網膜周辺の浮腫、網膜血管の拡張、迂曲、新生が軽微にみられる。

重症になると右所見が著明となり、眼底出血が起き、硝子体も犯される。

最も重症になると、網膜は剥離し、硝子体は線維組織で犯され、その結果後方に乳白色の塊を生じ、虹彩は萎縮して水晶体に癒着し、水晶体自体も乳白色に濁る。

(3) 高濃度の酸素を六日以上連続投与し後急に普通の空気呼吸に戻すと、網膜が高濃度の酸素に馴化していたため、網膜周辺部に浮腫等が生ずる。

(4) 酸素吸入の期間が長いほど、本症の発生頻度は高い。

(5) 酸素供給中止後三四日目に発症した例もある。

(6) 本症の原因は、低酸素症であるとされるが、酸素自体による中毒と考える説もある。

網膜血管が高濃度酸素により攣縮し、正常な血液供給が妨げられて酸素欠乏となり、これに異常刺激が加わつて血管増殖をきたすと考えられる。

(7) 本症の予防のためには、七ないし一〇日おきくらいに従前の二〇パーセントくらいずつ酸素濃度を下げてゆくのがよい。

また、酸素吸入は必要なときにのみ行い、新生児の皮膚色がピンクであれば必要はない。

(8) 濃度を下げる二ないし三日前に必ず眼底検査を行う。

(9) 本症の四四パーセントは、治療を要せず快復する。

良い治療法がなければ、極力予防に注意すべきである。

(三) 昭和三三年

東京大学小児科の馬場一雄、奥山和男ら八名の学者と養育会病院小児科の中村仁吉ら六名の医師は、「小児科診療」二一巻二号(甲三一)に共同研究報告を行い、RLFの原因として酸素が関係しているので、酸素の投与量や投与方法に細心の注意を払うべきである、と警告した。

(四) 昭和三四年

「小児科診療」一〇月号(甲三二)において、未熟児の特集がなされたが、国立東京第一病院小児センターの坂口房子医師は、類似の構造と大きさをもつ保育器に同一流量の酸素を供給しても濃度は区々であることを指摘し、酸素濃度は濃度計により正確に測定すべきであると述べた。

(五) 昭和三七年

名古屋市立大学の小川次郎、飯田稔子両医師は、「小児科診療」二五巻一号(甲三三)に、次のような注目すべき報告を行つた。すなわち、

過剰は酸素供給がRLFの原因となり、一部の動物実験により肺硝子膜症の原因ともなるであろう。という見解がとられて以来、酸素の使用については従来に比べて慎重であり、三〇パーセント以下、多くとも四〇パーセント以下にとどむべきであるとの見解をとる人が多い、と。

(六) 昭和三八年

世界的な小児科学者であるイギリスのメリー・クロス(Mary Crosse)の著書「未熟児」がこの年に日本語に翻訳されて出版された(甲三四)。

同書において、クロスは、本症の予防方法として、

(1) 酸素は、チアノーゼが起る児に限り使用さるべきこと

(2) 酸素を投与する場合には、皮膚色を良好に保ちうる最小限の濃度とし、かつ最小限の期間とすべきこと

(3) 定期的に濃度を測定すること

(4) 濃度が三〇パーセントを超えることは例外的な場合にのみ許され、四〇パーセントを決して超えてはならないこと

(5) チアノーゼの児を蘇生させるために高濃度の酸素を使用する場合にも、短時間にとどめむべきこと

などを指摘し、これらの注意事項は、今日においてもなお妥当性を維持している。

このような原則が守られるならば、本症の発生を予防することができると考えられる。

(七) 昭和四二年

(1) この年の一月には、「現代小児科学大系第二巻、新生児疾患」(甲三五)が発行されたが、同書は小児科の最高水準を示す成書であり、小児科医の必読書である。

同書中の本症に関する解説には、酸素の過剰投与がRLFの原因になること、環境酸素濃度を四〇パーセント以下にすべきことは周知の事柄であること、呼吸状態が良好で、チアノーゼのない児には、酸素の補給が不要であることなどが述べられ、メリー・クロスの説も紹介されている。

(2) 同年一〇月には、「現代小児科学大系第一五巻、眼科・耳鼻科疾患」(甲三六)が発行されたが、本症の原因については、投与された酸素の供給過多による一種の酸素中毒と考えられている、と述べ、本症の予防については、保育器内の酸素分圧を四五パーセント以下に保つか、使用期間を最小限として定期的眼底検査を行う、と述べている。

(八) 昭和四三年

この年の五月には、広島において第七一回日本小児科学会が開かれ、大阪市立保健センターの竹内徹、奥村柔人、大浦敏明各医師らがRLFと酸素療法との関連について報告し、昭和四一年一〇月から昭和四二年一〇月までの間に同センターで受診したRLF三〇例について眼底検査をして調べた結果、酸素投与期間が長くなると発症すること(最短は五日、最長は九〇日)、濃度を四〇パーセント以下に保つた症例でも長期間投与するとRLFが発生してくることが判明した、と述べているが、右報告は、「日本小児科学会雑誌」七二巻一〇号(甲三七)に掲載されている。

(九) 昭和四四年

この年には、大阪大学の蒲生逸夫教授が「図説小児科学」(甲三八)を出版しているが、本症については、はじめ網膜血管の拡張、蛇行があり、二ないし五カ月で硝子体内への血管新生、網膜剥離とその線維化が生じて、水晶体後面に付着する、と説明し、治療法として、ACTH、副腎皮質ホルモン剤投与と手術を挙げ、予防法として、酸素を必要以上に高濃度で与えないこと、吸入終了時には濃度を徐々に下げることを挙げている。

(一〇) 昭和四五年

この年には、第一五回未熟児新生児研究会が開かれ、次のような研究発表がなされた(甲三九)。

(1) 関西医科大学の野呂幸枝、斉藤紀美子両医師は、光線療法後の発育に伴う眼底所見の変化について報告した。

(2) 天理病院の林裕、赤石強司、金成純子各小児科医と永田誠、鶴岡祥彦各眼科医は、昭和四一年八月から昭和四五年八月までの収容未熟児生存例一六五のうち、二五例(15.2パーセント)に本症が発生したが、このうちオーエンスⅡ期以上に進行したものは一五例(9.1パーセント)、Ⅲ期に至つたものは五例(3.0パーセント)であつたこと、在胎三二週未満、体重一、六〇〇グラム以下の児に一四日以上酸素を投与した場合には全例にⅡ期以上の本症がみられたこと、院内でⅢ期に進んだ五例と他院で本症と診断されて移送されてきた一〇例に、光凝固を施したところ、既に適期を過ぎていた転院例二を除き本症の進行を阻止し、治癒させたことを報告した。

昭和四五年当時光凝固法が有効な治療法として確立されていたことは、これらの報告により明らかであり、またテレビや新聞においても本症の報道がなされていた。

以上のことからして、わが国の平均的小児科医は、昭和四五年当時、本症の存在、酸素が原因であること、発症を予防するためには酸素投与が必要最小限度に抑えられるべきこと、眼底検査により早期に発見すればその後の適切な措置により多くの症例は自然治癒すること、なおも悪化する症例に対しては光凝固により確実に失明を防止しうることを知つていたものと考えられる。

5 わが国の産婦人科界における本症研究の歴史

(一) 昭和三五年

山口県立医科大学産婦人科の藤生太郎医師は、「産婦人科の実際」九巻六号(甲二二)においてRLF防止のためには、酸素供給は長時間持続的に行わないで必要の場合のみに行い、たえず器内酸素濃度に注意して四〇パーセント以下とし、中止するときにも徐々に濃度を下げて急激な濃度の変化は避けるようにする、と説いていた。

(二) 昭和三八年

この年に発行された「日本産婦人科全書」(甲二三)には、本症のたいていの初期症状が二ないし三週後に起こること、本症が環境酸素張力に密接な関係のあること、診断のためには毎週一回眼底検査をする外はないことなどが取上げられている。

(三) 昭和四一年

この年の一一月には、日本産婦人科学会新生児委員会の編集になる「新生児学」(甲二五)が発行されたが、その中には次のようなことが述べられている。

(1) チアノーゼがあるという理由から単純な考えで酸素療法を行うことは慎しむべきであること

(2) 酸素濃度は四〇パーセント以下とするのが常識であること

(3) 保育器内の酸素濃度は分時流量のみからは不明確で、濃度計の使用をすすめたいこと

(4) 保育器内で長時間酸素吸入をするときには、正確な濃度測定器で流量と濃度を定期的に測る必要があること

(5) 毎週一回の眼底検査をできるだけ行う必要があること

(6) 眼底所見が本症診断の決め手であり、リースらの表が参考になること

(四) 昭和四三年

(1) この年の四月には、日赤産院の三谷茂医師らが、「産科と婦人科」三五巻四号(甲二六)において、同院未熟児室の治療状況にもとづき、酸素濃度は三〇ないし三五パーセント程度とし、必要に応じて四〇パーセントまで増加すること、チアノーゼの消失をみたらできるだけ速やかに酸素濃度を下げ、必要最少限度の供給にとどめること、無呼吸発作が頻発するときは酸素の過剰投与に陥り易いので、一定期間ごとに眼底検査を行い、本症の早期発見に努める必要があること、酸素濃度は流量計によらず、直接に器内濃度を測定しなければならないことなどを指摘している。

(2) 同年一一月には、眼科の植村医師が、「産婦人科の実際」(甲二七)に論文を掲載して産科医の注意を喚起している。

右論文は、本症が酸素療法の切りつめにより劇的な減少をみせた後も散発しており、未熟児にとつては依然警戒すべき疾患であること、各院各科の連繋が必要であること、早期発見早期治療が重要で、そのためには定期的眼底検査の施行以外にないこと、退院後六か月までは月一回は眼底検査を受けるよう指導すべきであることなどを述べているが、特に重要なことは、右論文が副腎皮質ホルモン投与などの薬物療法のほかに、永田による光凝固法を治療法として紹介していることである。

(五) 昭和四六年

この年の一一月に発行された「現代産婦人科学大系、新生児学各論」(甲二八)は、本症においては予防および早期発見が重要であること、このためには未熟児の定期的眼科的管理が必要であり、入院中はもとより退院後も定期的な追跡が必要となろうことなどを説いている。

同書において本症の項目を執筆した植村は、一九六七年のアメリカにおける研究者の交流会の論議を紹介し、酸素療法を受けた未熟児はすべて眼科医が検査すべきであること、未熟児は生後二年間は規則的に眼の検査を受ける必要のあることが強調された、と述べ、また、キンゼイらが、未熟児を高濃度の酸素中に入れておく期間の長短が本症の発生に最も重要な要因であるとし、酸素環境から空気中にもどす方法は関係ない、としていることを紹介し、さらに、治療法として、活動期初期に副腎皮質ホルモン、ACTHの全身投与が行われ、手術療法として光凝固法が用いられる。と述べている。

以上のことからして、わガ国の産婦人科界においても、本症の存在は古くから知られ、その原因が過剰酸素供給にあること、酸素投与は必要の場合のみに行い、できれば濃度を三〇パーセント以下に制限すべきこと、濃度は濃度計により測定すべきこと、早期発見、早期治療が必要であり、そのためには週一回の定期的眼底検査が必要であること、治療法として副腎皮質ホルモン、ACTH投与のほかに光凝固法があることなどは、昭和四五年当時既によく知られていたものと考えられる。

二、同二について

1は認める。

2のうち、本症の自然寛解率が高いことは認める。

3のうち、本症の瘢痕期に入ると緑内障などの合併症を生ずることがあることは認める。

4のうち、本症が発症しても多くは活動期の初期において進行を停止することは認める。

5は不知。

三、同三について

1のうち、前段は認める。

2のうち、(一)は不知、(二)および(三)は争う。

本症の発症の原因が保育器により未熟児に投与された酸素であることは、以下に引用する被告ら提出の戊号各証によつても明らかである。

1 「酸素の過剰投与が原因と考えられる。」(戊一九)

2 「酸素の過剰投与はRLFの一因になると考えられている。」(戊二)

3 「未熟児と環境酸素張力に関しては、これとRLFとの発生に関する因果関係は誰しもが認めているようであり、」(戊二)

4 「高酸素環境が網膜血管を収縮させ、血漿成分の漏出、さらに線維の増殖というコースを辿ることが明らかになつた。」(戊二)

5 「一九五一年にオーストラリアのキヤンベルがその病因として未熟児保育時の酸素過剰説を唱え、注目をひいた。その後多くの疫学的研究によりこの説が確認されるに至つた」(戊五)

6 「今日ではもはや酸素が原因であることは常識となつた」(戊六)

7 「本症の原因として種々の説があげられたが、現在は主として次の二つの因子が参与すると考えられている。その一つは、血液中の酸素濃度であり、他の一つは未熟児の眼の網膜血管の発育が完成していない未熟な状態であるということである。」(戊一七の一)

8 「現在において最も重視されているのは、酸素との関係であり、臨床的、実験的に酸素により本症のおこることは実証されている。」(戊一八の一)

9 「酸素投与の日数、濃度が本症の一つの要因であることは疑いないことであろう。」(戊一八の三)

10 「昨今では、図<編注、次頁に掲載>に示すような酸素中毒が大勢を占めているように思う。」(戊一八の五)

11 「本症の発生に酸素が"引き金"の役割をすることは否定できない。」(戊一二)

12 「網膜、ことに網膜動脈が未熟な場合、酸素分圧が上昇することにより血管は攣縮し細くなり、その動脈に急激な無酸素、低酸素への状態が起こつて浮腫をきたし、残存血管は怒張し、末端から血管新生が起こり、この血管新生は網膜内のみならず内境介膜を破つて硝子体へ増殖する。このような血管の増殖性変化が本症の本態であるというのが多くの研究者の一致した意見である。」(戊二二)

以上のとおり、本症の発症原因が保育中の酸素にあることは、学会の常識となつている。

本症発生の原因として酸素のほかに、貧血、母体内における要因(妊婦の全身状態、胎盤異常等)、光刺激を挙げている文献として、戊五、戊八、戊九、戊一一、戊一八の一、四があり、また、出生を境にして起こる胎児ヘモグロビンの酸素飽和度の急激な上昇、胎児PO2値の新生児PO2値への変化を挙げているものとして、戊一一、戊一八の一があるけれども、これらは、酸素療法を受けることなく本症に罹患した例外的少数(戊一八の五によれば、全症例の一パーセント以下。)の問題であり、あるいは双胎の成熟児に関する問題であるから、本件各原告らとは前提を異にする症例である。

四、同四について

1 1について

本症の治療法としては、古くから、副、腎皮質ホルモン剤投与、逆酸素療法、ビタミンE投与、蛋白同化ホルモン投与などがあつた。

このうち、副腎皮質ホルモン剤投与は、一九五一年にリースらが本症の血管増殖期を抑制するかも知れないと考えて使用し始めたものであり、その効果は現在もなお議論されてはいるが、当初からのほとんど唯一の治療法として、最も広く使用されてきたものである。

たしかにその効果については賛否両論に分れるが、松本和夫らは、副腎皮質ホルモン、蛋白同化ホルモン、ATPの併用療法を行つて良好な成績を得ており(甲一)、植村医師も、昭和五一年五月の日本眼科学会における発表において、その効果を肯定している(甲八三)。

なお、逆酸素療法、ビタミンE投与、蛋白同化ホルモン投与の効果は、多くの追試により否定されている。

2 2について

光凝固法の開発とその治療法としての確立の歴史については、一に前述したとおりである。

光凝固法そのものは、昭和四〇年代初めにおいて、既にその装置が普及し、その臨床的応用も日々拡大しつつあり、網膜剥離およびその前段階をなす諸変化に対してはもとより、広く各種の網膜血管病変に対しても画期的な治療法として用いられ、その合理性と科学性が確証されていたのである。

従つて、永田医師が本症に適用したことは、右各病変と類同の病勢をもつ本症においても、本法により網膜血管の閉塞によつて起こる血管の異常な増殖を促進する因子を破壊し、網膜血管の正常な発育を促すことを考えたうえで、既存の原理の応用としてなされたことであつた。

本法の本症に対する適用は、画期的なものであり、その直後から多くの学者によつて支持され、積極的に評価され、昭和四四年には早くも天理病院に本症の患者が移送し始められ、昭和四五年以降全国各地で実施され始めた。

本法を積極的に評価した文献として、甲一三、戊四二(以上、植村恭夫)、甲一四(奥山和男)、戊七四、戊九六(以上、馬嶋昭生)、甲一九、戊七七(以上、大島健司)、甲九三(中内正海)、戊九二(菅謙治)などがあるが、とくに馬嶋医師が昭和五一年三月発行の「産婦人科の実際」二五巻三号(戊九六)において、「一九六八年天理病院の永田誠眼科部長が、網膜剥離の治療の目的で西ドイツで開発された光凝固法を本症の活動期の治療に応用し、画期的な成功を収めたことは特筆すべきである。その後多くの追試があり、現在ではわが国はもちろん欧米でも行われている。著者も一九七一年以来約八〇例に施行し、今日では確立された治療法としてその効果を疑うものはない。」と述べていることに注目すべきである。

五、同五について

被告らは、眼底検査に習熟することの困難性を強調するが、植村医師は、「眼科医ならば、僅かの期間でこの技術の習得は可能である」と述べており(甲一七)、永田医師も、「眼底検査は、児が泣いている時間も含め、五ないし一〇分程度であり、検査そのものの時間は数分である。」と証言しており、また、被告ら病院においても、各原告らの本症による失明が発見された後まもなく眼底検査が開始されているのであるから、被告らの主張は当を得ない。

六、同六について

1 原告森について

(一) 同(一)について

(1)および(3)は認めるが、(2)は否認する。

(二) 同(二)について

(1) (1)は認める。

(2) (2)のうち、入院時の体重が一、五八〇グラムであつたことは認め、その余は不知。

(3) (3)のうち、入院時の全身色が正常であつたことおよび保育器に収容されたことは認め、その余は不知。

(4) (4)ないし(8)は不知。

(三) 同(三)について

(1) (1)のうち、保育器収容期の始期は認め、終期は不知。

(2) (2)のうち、前段は否認し、後段は不知。

(四) 同(四)について

(1) (1)は認める。

(2) (2)のうち、昭和四六年一月一八日に急性気管支炎が発病したため再入院したことおよびただちに保育器に収容されたことは認めるが、その余は否認する。

(3) (3)のうち、酸素が投与されたことは認め、保育器収容期間の終期ならびに酸素投与の期間および量は不知、その余は否認する。

(4) (4)のうち、「以上により」との点は不知、その余は認める。

(五) 同(五)について

(1) (1)のうち、「昭和四六年四月九日に」との点は否認し、その余は認める。

(2) (2)は認める。

2 原告大池について

(一) 同(一)について

(1) (1)のうち、分娩予定日は否認し、その余は認める。

(2) (2)は認める。

(3) (3)のうち、母みち子(当時三五年)が静岡赤十字病院産婦人科において糖尿病の治療を受けていたことおよび昭和四五年一二月一四日に早産の疑いにより入院したことは認め、その余は不知。

(二) 同(二)について

(1) (1)は認める。

(2) (2)のうち、入院時の体重が一、六〇〇グラムであつたことは認め、その余は不知。

(3) (3)のうち、出産後保育器に収容されたことならびに口周囲および四肢末端にチアノーゼがあつたことは認めるが、これが著明であつたとの点は否認し、その余は不知。

(4) (4)は認める。

(5) (5)のうち、チアノーゼが四肢末端および口周囲にあつたことならびに一月二一日(一二日目)には軽度に存するのみとなりその後消失したことは認めるが、当初のチアノーゼが著明であつたとの点は否認し、その余は不知。

(6) (6)は不知。

(7) (7)うち、光凝固療法を受けたことがあることは認め、その余は不知。

(三) 同(三)について

(1) (1)のうち、保育器収容期間の始期は認め、終期は不知。

(2) (2)のうち、前投は否認し、後段は不知。

(四) 同(四)は認める。

(五) 同(五)も認める。

3 原告石川について

(一) 同(一)は認める。

(二) 同(二)について

(1) (1)は認める。

(2) (2)は不知。

(3) (3)のうち、入院時の全身色が赤色であつたことおよびただちに保育器に収容されたことは認めるが、その余は不知。

(4) (4)ないし(7)は不知。

(5) (8)のうち、栄養補給が鼻導カテーテルにより行われ、その後経口に切換えられたことは認めるが、その余は不知。

(6) (9)は否認する。

(三) 同(三)について

(1) (1)のうち、保育器収容期間の始期は認め、終期は不知。

(2) (2)は不知。

(3) (3)のうち、前段は否認し、後段は不知。

(4) (4)は不知。

(四) 同(四)は認める。

(五) 同(五)について

(1) (1)は認める。

(2) (2)も認める。

(3) (3)のうち、榊原医師が原告石川に国立小児病院の植村医師を紹介したことおよび同原告が転医、受診したことは認めるが、その余は否認する。

転医、受診の手続は、同原告の両親がとつたものである。

(4) (4)は認める。

4 原告塚本について

(一) 同(一)について

(1) (1)は認める。

(2) (2)も認める。

(3) (3)のうち、母洋子に悪阻と不正出血があつたことは否認し、その余は認める。

(4) (4)は不知。

(二) 同(二)について

(1) (1)は認める。

(2) (2)のうち、入院時の体重が一、二八〇グラムであつたことは認めるが、未熟度がききわめて強かつたとの点は否認し、その余は不知。

(3) (3)のうち、四肢および口唇にチアノーゼが認められたことおよびただちに保育器に収容されたことは認めるが、チアノーゼが強度であつたとの点および生命危険の状態にあつたとの点は否認し、その余は不知。

(4) (4)のうち、入院直後からチアノーゼが全身性となつたことは否認し、その余は不知。

(5) (5)のうち、二月二〇日(一二日目)ころまで一般状態がきわめて悪かつたとの点は否認し、その余は不知。

(6) (6)のうち、二月下旬に呼吸状態がやや快復し、体温も正常化したことは認めるが、その余は不知。

(7) (7)のうち、三月下旬に哺乳力が良好となつて体重増加もみられ、諸反射が正常に出現したことは認めるが、その余は不知。

(8) (8)は不知。

(9) (9)のうち、栄養補給が鼻導により行われ、その後経口哺乳が開始されたことは認めるが、その余は不知。

(10) (10)は認める。

(三) 同(三)について

(1) (1)のうち、保育器収容期間の始期は認め、終期は不知。

(2) (2)は不知。

(3) (3)のうち、前段は否認し、後段は不知。

(4) (4)は不知。

(四) 同(四)について

(1) (1)は認める。

(2) (2)のうち水野医師が昭和四八年四月一八日に原告塚本の両親に対して本症について説明し、国立小児病院を紹介したことおよび同原告が同月二三日午前一〇時に静岡市立病院を退院し、国立小児病院に転院したことは認めるが、その余は否認する。

転院の手続は、同原告の両親がとつたものである。

七、同七について

被告らは、一般論として、未熟児の死亡率の高さ、保育の困難性を説くけれども、原告ら四名は、遅くとも生後三週間ないし一か月までには、チアノーゼが消失し、呼吸不整や心音不整の状態もなくなり、生命、身体にいささかの不安もない状態になつていたのであるから、被告らの主張は具体的妥当性を欠いている。

八、同八について

1 被告らは、医師の注意義務は平均的一般的な医療水準を基準として判断すべきである、と主張するけれども、そこにいう「平均的一般的」ということばの意味はきわめて不明確であり、ややもすれば、医療関係者の怠慢に口実を与えることにもなりかねないので、右表現は妥当でない。

医師は、その所属診療科や勤務医療機関の規模ないし所在地域の如何にかかわらず、患者に最高度の医療の機会を与えるべき高度の注意義務を負つている。

被告ら病院はいずれも総合病院であり、かつ養育医療指定機関になつていたのであるから、そこに勤務する各原告らの担当医師は次のような注意義務を負つていたものというべきである。

(一) およそ病院は、傷病者が科学的でかつ適正な診療を受けることがきる便宜を与えることを主たる目的として組織され、かつ運営されるものでなければならず、(医療法一条一項)、とりわけ総合病院は、患者一〇〇人以上の収容施設を有し、その診療科目中に、内科、外科、産婦人科、眼科および耳鼻咽喉科を含み、かつ研究室、講義室、図書室、病理解剖室等の施設を有しなければならない(同法四条一項、二二条一項)のであるから、総合病院においては、各診療科がそれぞれ高度に充実した医療技術および設備を有することはもとより、診療上各科が相互に連携して共助し合い、患者に対して最も科学的でかつ適正な診療の便宜を与えるようにすることが予定されているものというべきである。

(二) まして、養育医療機関の指定を受けた総合病院においては、未熟児の罹患する疾病に関する最高の診療の便宜を与えるべきことが予定されているものというべきである。

(三) 従つて、このような医療機関に勤務する医師としては、本症に関する最高の知識を保持するとともに、本症に対する最高の診療技術を修得しておくほか、各科の協力関係を整えておくべき注意義務を負い、さらに、設備の欠如等による診療不能などに際しては、これが可能な他の医療機関に患者を転医させるべき注意義務を負うものというべきである。

2 被告らは、被告ら病院の各担当医師の注意義務を判断するための基準として、未熟児保育の困難性を主張するけれども、右主張が具体的妥当性を欠くことは、七に前述したとおりである。

九、同九について

未熟児に対する酸素補給については、その使用を制限することが本件各医療行為当時における常識となつていたことは、以下に引用する被告ら提出の戊号各証によつても明らかである。

1 「酸素投与は医師の指示によつて行う。保育器内の酸素濃度は定期的に測定、記録されなければならない。」(戊一の二、昭和四三年一〇月発行)

2 「酸素の過剰投与はRLFの一因になると考えられている。過剰投与とは酸素が不必要になつた後も引続き使用(待に酸素濃度四〇パーセントを超えて)することをいう。

医学的な適応のある場合に限つて酸素を使用する。すなわち、一般には、

(一) 全身チアノーゼのある場合。手足のチアノーゼだけでは酸素使用の適応とはならない。

(二) 呼吸困難のある場合には、酸素使用の決定は医師の臨床的な判断による。

環境酸素濃度は、症状を好転させると思われる最低濃度にする。もしできれば、四〇パーセントより高くしない。

症状が好転したら、速やかに酸素濃度を低くするか、または中止する。このために、症状を頻回に観察することが大切である。

児の頭の近くの酸素濃度をできるだけ頻回に(少くとも八時間ごとに)測定する。

小さな未熟児が純酸素を投与したときだけ皮膚ピンク色である場合に、クロスは次のような方法を推奨している。すなわち、まず純酸素を八ないし一〇分間(酸素マスクで)与え、それから軽いチアノーゼが現れるまで酸素の投与を中止する。この処置を必要なだけ繰返す。これは時間のかかる方法ではあるが、児の視力を救い、さらに生命をも救う処置であると述べている。」(戊二、昭和四二年三月発行)

3 「現在においては、四〇体積パーセント以下の使用であらねばならなぬが、リヴアイン(Levine)のいうごとく、流量計と酸素濃度測定器を用いずしての酸素使用は現在のところ不可である。」(右同)

4 「出生後暫くの期間における未熟児の血液PO2は低値を示し、また肺の毛細管網の発達が不充分なために、酸素の摂取が不良であることが予想され、一度無酸素症に陥れば、無酸素性脳傷害や無酸素性出血を起こす可能性があるので、ルーチンに酸素を行うこともあるが、この場合には酸素濃度は三〇パーセント以下にとどめる。酸素投与の期間はなるべく短い方がよい。」(戊三、昭和四四年一二月発行)

5 「高濃度酸素投与時には短期間の使用にとどめ、たえずPO2のチエツクを行い、かつ症状改善のきざしが見られる場合には速やかに酸素濃度を低下してゆくことが必要である。」(戊七、昭和四七年六月)

6 「酸素投与は喚気中の遅素濃度でなく未熟児の動脈中のPO2によつて監視すべきであるといわれる時代になつたのである。そしてPO2は一〇〇ミリメートル水銀柱を越えてはならず、六〇ないし八〇ミリメートル水銀柱に維持するのが望ましいという一般的見解となつた。」(戊一〇、昭和四七年八月発行)

7 「発生を予防するためには、未熟児の網膜の血管の未熟性は如何ともしがたいので、酸素の使用をできるだけ制限するほかはない。」(戊一七の一、昭和五〇年発行)

8 「酸素と本症については、酸素濃度と投与期間が問題となる。これについては、実験的には、未熟度と濃度が一定の場合には、酸素の投与期間が関係することが明らかにされており、酸素を間歇的に投与することによつて本症の発生を防ぎうることは実験的には可能となつた。」(戊一八の一、昭和四九年九月発行)

9 「呼吸状態が良好で、チアノーゼもないものには、酸素の補給は不要である。酸素の過剰投与がRLFの原因になるので、環境酸素濃度を四〇パーセント以下にすべきであるということは、既に周知のことがらである。」(戊一九、昭和四二年一月発行)

10 「従来はさらに、チアノーゼが起こらぬ最低濃度を目標に酸素療法が行われてきたが、最近は確実な方法としてPO2を測定し、それをモニターとして酸素療法を行うことが実施されるようになつてきた。」(戊二二、昭和四九年七月発行)

以上のとおり、本症発生予防のための酸素制限、またその発展形態としてのチアノーゼあるいはPO2をモニターとする酸素管理は、相当早い段階から現在に至るまで唱えられてきたのである。

一〇、同一〇について

本症の早期発見および早期治療のために、眼底検査の必要があり、かつこれが本件各医療行然当時全国各地に普及していたことについては、一に前述したとおりであるが、本件証拠上、一の3の(三)に挙げた以外にも、次のような医療機関において既に眼底検査が行われていたことが明らかである。

1 東北大学

昭和四三、四年ころから眼科的管理を行つていた(戊一一)。

2 国立東京第二病院

昭和四四年以降眼底検査を行つていた(証人石塚祐吾の証言)。

3 松戸市民病院

昭和四五年以降眼底検査を行つていたことが窺われる(甲六五)。

4 県立広島病院

昭和四五年一月以降眼底検査を行つていた(甲六三)。

5 国立大村病院

昭和四五年七月以降定期的眼底検査が行われていた(甲六一)。

6 都立母子保健院

昭和四四年一二月から眼底検査を行つていた(証人村田文也の証言)。

7 名古屋市立大学

昭和三九年から特に小さな未熟児に対して退院時に倒像鏡による眼底検査を行い、昭和四三年からは全例に対してこれを行い、昭和四五年から生後二週間後から週一回の割合で定期的に行つていた(戊三一)。

8 都立築地産院

昭和四四年六月には既に順天堂大学眼科の中島章医師が出張医療をしていた(甲七四)。

9 兵庫県立子ども病院

昭和四五年五月以降眼底検査を行つていた(戊八)。

以上のとおり、眼底検査の必要性は、昭和三〇年代から執拗にくり返して主張され、植村医師の啓蒙運動によりその認識が常識化したのであり、そして、光凝固法という画期的な治療方法の発見・発表と相俟つて定期的眼底検査が普及し、常例化していつたのである。

一一、同一一について

本症に対する治療法としての光凝固法の確立およびこれが本件各医療行為当時全国各地に普及しつつあつたことについては、一の3および四の2に前述したとおりであるが、昭和四五年前後には、光凝固装置を有しない医療機関からこれを有する医療機関への転医により、患児に本法による治療を受けさせていた例も多数存するので、以下本件証拠に現れたものを指摘しておく。

1 天理病院

昭和四二年の二症例と昭和四四年の四症例の後を承けて、昭和四四年に二症例、昭和四五年に一四症例に対して光凝固が実施されたが、右一六症例のうち、一四症例は他院からの紹介患者であり、時期を失した二例を除き、一二例が失明を免れた(甲一五)。

2 愛媛県立中央病院

昭和四五年五月から昭和四六年九月までの間に収容した未熟児生存例一〇三名のうち、一一名に本症がみられたが、そのうち二名を徳島大学に紹介して光凝固治療を受けさせた(戊七五)。

3 関西医科大学

昭和四四年一一月から本症に対し光凝固法を用いたが、最初の患者は他院からの紹介患者であつた(証人塚原勇の証言)。また、昭和四五年九月までに本法を適用した五例のうち、三例は他院からの紹介患者であつた(甲六五)。

4 国立東京第二病院

昭和四五年以降本症に対し他院に委嘱して光凝固を行つている(証人石塚祐吾の証言)。

5 福井赤十字病院

昭和四三年、昭和四五年、昭和四六年に各一例ずつ天理病院に移送して光凝固治療を受けさせたが、紹介時期の遅れた最初の一例を除き、二例は失明を免れた(甲一〇一)。

6 名鉄病院

昭和四四年から昭和四六年七月までの間に光凝固を実施した二三例(うち二〇例が成効。)のうち、二〇例は他院からの紹介患者であつた(甲六二)。

以上のとおり、昭和四五年当時には、光凝固を実施しうる各地の医療機関に、その周辺地区のみならず、はるか遠方からも患者が移送され、光凝固がなされており、時期を失した者を除き、大多数が失明を免れたのである。

従つて、被告ら病院の各担当医師としても、各原告らの本症の発生を早期に発見し、光凝固の実施可能な医療機関に各原告らを移送すべきであつたといわなければならない。

仮に、本件各医療行為当時光凝固法の施行が医学界の常例ではなかつたとしても、失明という最悪の状態を回避すべき治療手段が他において施行され、しかもその有効性が認められている以上、被告ら病院の各担当医師らには当該治療を受けさせるべく適正な手続をとるべき注意義務があつたものというべきである。

本件の場合、被告ら病院の各担当医師は、光凝固法が追試段階にあるからという理由により敢えて本法を選ばなかつたというものではなく、本法を含めた一切の治療法を全面的に懈怠したのであり、そもそも本法の存在すら認識していなかつたのである。

それゆえ、本件各医療行為当時本法がなお確立された治療法になつていなかつた、という被告らの主張は全くの逃げ口上というほかはなく、これによつて被告らが免責されるいわれは全くない。

一二、同一二は争う。

第三  各当事者の提出した証拠<略>

理由

第一当事者間に争いのない事実

一、被告らが定款あるいは条例等により定められた業務の一つである健康増進、疾病・苦痛軽減その他社会奉仕等のための事業の一環として、静岡市あるいは清水市において総合病院を経営ないし運営し、小児科医、眼科医等を雇傭して医療行為を行わせていたこと、

二、原告らがいずれも未熟児として出生し、出生と同時にあるいは出生後ただちに被告ら病院に入院し、保育器に収容されて酸素の投与を受けていたが、全員が本症に罹患し、両眼の視力を完全に失つて全盲となつたこと

三、被告日赤がムルヨノ医師を、被告厚生連が榊原医師を、被告静岡市が水野医師をそれぞれ雇傭して医療業務を行わせ、各原告らに対する医療行為が右業務の執行としてなされていたこと

四、本症の臨床経過に関する学説としてオーエンスらによる分類が存し、その内容が請求原因三の2記載のとおりであること

五、以上の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。

第二各原告らの臨床経過

一原告森

<証拠>を総合すると、次のような事実が認められる。

1  原告森の分娩予定日は昭和四五年一二月一三日であつたが、同原告は、これより約六五日早い同年一〇月九日午前七時三〇分ころ、静岡赤十字病院産婦人科において、二卵性双生児の第一子として出生した。

出産は骨盤位(異常)であり、双胎第二子は、出生後ただちに保育器に収容されたが、約九時間後に死亡した。

同原告の生下時体重は、一、五八〇グラム、在胎週数は三一週であつた(甲第二〇二号証の三に「三三週」とあるのは、違算と認められる)。

2  同原告は、出生日(一日目)の午前七時四〇分ころ、同病院小児科未熟児室に入院し、ムルヨノ医師の担当により保育医療を受けることとなつた。

同原告の入院時の体重は、一、五八〇グラム、体温は三五度以下、脈拍は一四三、呼吸数は五六であつた。

同原告の入院時の全身色は良好であつたが、顔面、手掌および足底にチアノーゼが著明であつたため、ただちに保育器(アトムⅤ―五五型)に収容され、五リツトルの酸素の投与を受け始めた。

同日午後三時ころ、呼吸が停止し、全身に強度のチアノーゼが出現したが、ただちに胸部マツサージを受けたため回復し、自発呼吸を再開した。

その後、全身色は比較的良好であつたが、チアノーゼが足底と手掌に強度に出現し、浮腫も著明になり、浅表呼吸、陥没呼吸が見られ、翌日(二日目)午前〇時ころには無呼吸状態がときどき見られ、一般状態は不良であつた。

なお、静岡赤十字病院においては、重症のため生命に危険の存する入院患者の容態の急変に備えるため、当直医、当直婦長その他関係者に患者の状態を報告し、その注意と協力を求める制度として、「重症報告」という制度があつたが、ムルヨノ医師は、同原告の臨床症状に鑑み、同日、同原告について重症報告を開始した。

3  一〇月一〇日(二日目)午前五時ころには、一分間以上の呼吸停止がときおり見られ、午前八時ころにも三〇秒ないし一分間以上の呼吸停止が見られた。

4  同日(二日目)の日中から一〇月一一日(三日目)午後までは、浅表ないし不整呼吸は見られたものの、陥没呼吸はみられず、啼泣や運動も活発であつたが、口周囲と手掌、足底に常時チアノーゼが出現し、体温はおおむね三五度台にとどまつていた。

同日(三日目)午後九時ころには、哺乳直後に一〇ないし二〇秒くらいの呼吸休止がみられたが、その後は順調であつた。

同日から鼻導栄養が開始された。

5  翌一〇月一二日(四日目)午前中は、浅表ないし不整呼吸と口周囲および四肢末端のチアノーゼが見られたほか、黄疸が出現し、同日午後には一五ないし二〇秒くらいの無呼吸状態がときどき見られ、午後六時ころには陥没呼吸とシーソー様呼吸が見られ、午後九時ころには全身色が暗赤色となり、一〇ないし二〇秒の呼吸停止が認められた。

6  そして、一〇月一四日(五日目)午前一時三〇分ころにも、シーソー様呼吸が見られ、午前二時四〇分ころには、これに加えて一〇秒ほどの呼吸休止が見られ、午前五時ころになつてこれらが見られなくなつた後も、なお不整ないし促迫呼吸は残り、同日午前中はチアノーゼが口周囲、眼周囲および四肢末端に出現し、低体温状態が続いた。

同日午後から一〇月一四日(六日目)午前にかけては呼吸の停止はみられず、呼吸不整も目立たず、運動や啼泣も比較的活発であつたが、黄疸は持続し、チアノーゼも口周囲、眼周囲、四肢末端に出現していた。

7  同日日中には、四肢と口周囲のほかに大腿部と鼻翼にチアノーゼが見られ、呼吸は浅表で、二〇秒近く休止することがあつたほか、黄疸が著明に出現し、同日夕刻には浅表ないし不整呼吸が目立ち、夜には無呼吸状態がときどきあり、四肢は弛緩気味であつた。

同日の体重は、一、四三〇グラムであつた。

8  そして、一〇月一五日(七日目)に入ると、啼泣と運動が活発になつたが、なお呼吸は浅表で、ときどき一〇ないし一五秒くらい休止し、チアノーゼも口周囲と四肢末端に出現していた。

しかし、同日日中には多少回復し、呼吸休止時間も一〇秒以下となり、哺乳も良好であつた。

9  一〇月一六日(八日目)に入ると、一五ないし二〇秒の呼吸休止が認められたが、啼泣と運動は活発となつた。

同日日中には、呼吸、脈拍とも異常がなかつたが、口周囲にチアノーゼが出現し、低体温が続いた。

同日夕刻には、呼吸が浅表で促迫していたものの、休止することはほとんどなくなつたが、口周囲、四肢末端に強度のチアノーゼがみられ、低体温が続いた。

同日の体重は、一、四二〇グラムであつた。

10  一〇月一七日(九日目)に入ると、チアノーゼは軽度となり、呼吸休止は見られなくなつたが、なお不整があり、終日三五度以下の低体温が続いた。

11  一〇月一八日(一〇日目)に入ると、呼吸不整が軽度になり、チアノーゼも四肢末端に出現するにとどまり、冷感も軽度となつたが、黄疸は強く残つていた。

同日の体重は一、四〇〇グラムの最低値を示した。

12  一〇月一九日(一一日目)に入ると、チアノーゼが口周囲に出現するにとどまつたものの、呼吸は浅表で、促迫し、脈拍も徐脈であつたが、啼泣運動は活発であつた。

13  一〇月二〇日(一二日目)に入ると、脈迫、呼吸ともに著変がなくなり、黄疸も消失し始めたが、軽度の呼吸不整がみられることもあつた。

酸素投与量は、同日午前一〇時に五リツトルから三リツトルに減ぜられた。

14  しかし、一〇月二一日(一三日目)には再び黄疸が強くなり、呼吸浅表と軽度の呼吸不整が見られ、午前七時二〇分ころ、二ないし三秒の呼吸休止があり、同日午前中には、チアノーゼが口周囲および四肢末端に出現し、同日午後には、全身色はおおむね暗赤色で、啼泣時に強度となつたが、呼吸、脈拍の異常は消失していつた。

15  一〇月二二日(一四日目)に入ると、冷感は軽減したが、全身色は暗赤色で、口周囲にチアノーゼが出現し、呼吸休止は見られなくなつたものの、浅表な不整呼吸が見られた。

同日の体重は一、五〇〇グラムに増加した。

16  一〇月二三日(一五日目)はおおむね順調に推移したが、全身色はなお暗赤色で、口周囲にチアノーゼが常時出現していた。

17  一〇月二四日(一六日目)に入つても、全身色は不良であり、啼泣、運動とも乏しく、日中に浅表呼吸と軽度の呼吸不整が見られたが、夕刻には格別の変化はなかつた。

18  一〇月二五日(一七日目)に入つても、全身色は暗赤色で、啼泣、運動が乏しかつた。

同日午後二時ころ、保育器を交換したところ、体温が三八度に上昇したため、水枕で処置を受けたが、呼吸不整および促迫が見られた。

19  一〇月二六日(一八日目)には、呼吸、脈迫とも異常がなかつたが、全身色の暗赤色は持続していた。

同日午後二時三〇分ころ、保育器を交換したところ、午後三時ころ、体温が38.3度に上昇したため、氷枕を貼用した結果、午後四時ころには36.2度に下降した。

同日の体重は一、六三〇グラムであつた。

20  一〇月二七日(一九日目)に入つても、全身色は暗赤色のままで、安静時に呼吸促迫が見られ、啼泣は乏しかつた。

21  一〇月二八日(二〇日目)にも、全身色は暗赤色のままで、運動、啼泣ともに乏しかつたが、呼吸と脈迫は落着いていた。

22  一〇月二九日(二一日目)に入ると、全身色は暗紫色となり、午前六時ころには、呼吸状態が悪化して陥没呼吸を呈し、溢乳したため強制吸引が施行され、その後も運動、啼泣がなく、脱水状態が強く、日中は口周囲と四肢末端にチアノーゼが認められたが、夜間には格別の変化がなかつた。

同日の体重は、一、六七〇グラムであつた。

23  一〇月三〇日(二二日目)には、全身色は優れず、軽度の呼吸不整が見られ、午前一〇時には酸素投与量を三リツトルから二リツトルに減じたところ、夜間には呼吸促迫と口周囲のチアノーゼが見られた。

24  一〇月三一日(二三日目)に入つても、全身色は優れず、呼吸不整が見られたが、日中は呼吸、脈迫とも異常がなく、夜間にときどき呼吸促迫が見られた。

25  一一月一日(二四日目)には、全身色が不良で、啼泣、運動とも乏しかつた。

26  一一月二日(二五日目)朝まで前日とほぼ同様に推移し、同日午前一一時三〇分ころ、体温が37.8度に上昇したため、水枕が貼用され、呼吸促迫と軽度の呼吸不整が見られたが、午後三時ころには体温も36.7度に下降し、夜間は呼吸、脈迫とも特に変化がなかつた。

同日の体重は一、七三〇グラムであつた。

27  一一月三日(二六日目)に入ると、呼吸がときどき休止状態を呈したものの、困難はなく、日中は呼吸、脈迫とも異状がなかつた。

28  一一月四日(二七日目)には、全身が暗赤色を呈し、午後には毎分一回五ないし六秒の呼吸休止が見られ、呼吸は不整であつたが、夜間には休止が見られなくなつた。

29  一一月五日(二八日目)にも、全身は暗赤色で、啼泣、運動とも弱かつたが、呼吸、脈迫には著変がなかつた。

同日の体重は一、八四〇グラムであつた。

30  一一月六日(二九日目)にも、全身が暗赤色であつたが、呼吸には異常がなかつた。

31  一一月七日(三〇日目)および一一月八日(三一日目)も一一月六日と同様に推移した。

32  一一月九日(三二日目)には、哺乳力が改善されたため、従前の鼻導栄養から経口哺乳に切換えられ、重症報告も解除された。

同日の体重は一、九五〇グラムであつた。

33  一一月一〇日(三三日目)には、午前一一時三〇分に酸素投与量が二リツトルに減ぜられたが、体温、脈迫、呼吸とも異常がなかつた。

34  一一月一一日(三四日目)には、全身色は依然暗赤色を呈していたが、体温、脈迫、呼吸とも異常がなかつた。

35  一一月一二日(三五日目)には、全身色が暗赤色を呈していたものの、哺乳力は良好であり、午前一一時には酸素投与が打切られた。

同日の体重は二、〇〇〇グラムであつた。

36  一一月一三日(三六日目)には、一般状態に格別の変化がなく、体動も活発であり、日中呼吸が促迫気味であつたものの、不整はみられず、哺乳力も良好で、口周囲のチアノーゼも出現しなかつたが、全身色は暗赤色を呈していた。

37  一一月一四日(三七日目)も、全身色は暗赤色であつたが、哺乳力は良好で、一一月一六日には体重が二、一三〇グラムに増加し、啼泣、運動も活発であつたため、一一月一七日(四〇日目)には、午前一一時に着衣のうえ保育器の開放を受け、午後三時にコツトに移床された。

38  しかし、全身色はその後も改善されず、一一月一八日(四一日目)には軽度の呼吸促迫が見られ、同日および一一月二六日(四九日目)には哺乳の際に一時的な呼吸促迫が見られ、一一月二七日(五〇日目)にも鼻閉の強制吸引後に呼吸促迫が見られ、同日ころから眼瞼に浮腫が見られ、一二月二日(五五日目)には顔面浮腫が著明となり、退院時まで眼瞼腫張感を残し、退院日に口周囲のチアノーゼが見られたが、右期間を通じ、哺乳力はおおむね良好で、体重が順調に増加し、体温、脈迫もほぼ正常であつた。

39  同原告は、一二月三日に体重が二、八七〇グラムとなり、一二月五日(五八日目)に軽快して退院したが、入院期間中に気道感染を受けやすい傾向を示していた。

40  はたして、同原告は、昭和四六年一月一八日(一〇二日目)午後二時三〇分ころ、急性気管支炎により再度静岡赤十字病院に入院したが、入院時の体温は36.9度で、脈迫は一六〇、呼吸数は六〇であり、鳴が著明で、鼻翼呼吸と陥没呼吸が見られたほか、落陽現象を呈していた。

そして、同原告は、ムルヨノ医師の担当により治療を受けることとなり、ただちに保育器に収容され、三リツトルの酸素投与を受け始めた。

同日午後三時三〇分ころ、保育器の不調により、器内温度がムルヨノ医師の指示していた二五度を超えて三四度まで上昇したため、急遽氷が使用されて冷却されたことがあつたが、体温は上昇しなかつた。

同日午後四時ころには、啼泣、運動が活発であつたが、落陽現象が見られた。

同日午後六時ころには、哺乳が比較的良好であつたが、哺乳後に鼻翼呼吸と著明な呼吸促迫が見られ、喘鳴があつた。

同日午後九時ころには、喘鳴と呼吸促迫のほか、軽度の季肋部陥没が見られたが、鼻翼呼吸は見られなかつた。

41  一月一九日(一〇三日目)に入ると、口周囲にチアノーゼが出現したほか、落陽現象が見られた。

同日午前三時ころには、鼻翼呼吸はなかつたが、季肋部陥没呼吸が見られ、呼吸はやや促迫気味であつた。

同日午前六時ころにも、陥没呼吸が見られたが、落陽現象は確認されなかつた。

同日日中は、ほぼ順調に推移したが、午後三時ころ、咳嗽時に陥没呼吸が見られ、時に落陽現象が見られた。

同日午後六時ころ、体温の上昇はなかつたが、器内温度が三一度まで上昇したため、発汗が多少あつたので、氷により冷却された。

哺乳力は比較的良好であつたが、哺乳後から陥没呼吸、呼吸促迫が強くなり、口周囲にチアノーゼが出現し、脈迫は不整で結滞していた。

夜間も、陥没呼吸、呼吸促迫、呼吸浅表がみられ、鼻汁流出とともに鼻翼呼吸が見られた。

42  一月二〇日(一〇四日目)朝には、啼泣が活発であつたが、呼吸浅表で、促迫気味であり、季肋部の陥没も見られた。

同日午後にも、呼吸浅表、呼吸促迫が見られ、呼吸時に鼻翼呼吸が見られ、喘鳴は持続し、陥没呼吸も見られたが、夜間に器内温度が二五度に調節しえないこともあつた。

43  一月二一日(一〇五日目)に入つても、咳嗽と喘鳴が持続し、呼吸は浅表で、陥没呼吸が見られ、やや促迫していた。

同日朝になると、入眠時に陥没呼吸が見られたが、やや落着いてきた。

しかし、午後には、浅表呼吸、呼吸促迫が続き、ときに陥没呼吸も見られ、夜間もほぼ同様であつた。

44  一月二二日(一〇六日目)午前中は、脈拍が良好で、不整、浅表がなかつたが、午後になると、哺乳時に陥没呼吸が見られ呼吸は浅表であつた。

夜間は呼吸状態が比較的落着いていた。

45  一月二三日(一〇七日目)の午後には、呼吸がやや浅表で、促迫も見られたが、喘鳴はなかつた。

しかし、夕刻には、全身色が不良で、陥没呼吸が見られ、上方凝視と落陽現象が目立つた。

夜間には、呼吸浅表と促迫が著明で、常時喘鳴があり、落陽現象が著明であつたが、睡眠中は呼吸状態が落着いていた。

46  一月二四日(一〇八日目)朝にも、呼吸浅表と促迫が続き、陥没呼吸が見られたほか、落陽現象と上方凝視が見られた。

午前中は右同様の呼吸状態が持続したが、午後に入ると、呼吸、脈拍とも著変がなくなり、夜半に及んだ。

47  一月二五日(一〇九日目)に入ると、呼吸浅表と促迫が見られ、全身色も不良であつたが、咳嗽と喘鳴はなく、哺乳力も良好であつた。

しかし、この時にも、上方凝視と落陽現象が見られた。

午前中は、咳嗽が頻回にあり、呼吸促迫が著明であつたほか、落陽現象が常時見られた。

午後には、啼泣時に陥没呼吸が見られ、口周囲にチアノーゼが出現し、呼吸促迫も見られた。

夜間には、咳嗽と喘鳴が軽度となり、特に強い呼吸困難は見られなかつた。

48  一月二六日(一一〇日目)の午前一〇時ころには、呼吸が浅表で、肋間腔の陥没が見られ、全身色は暗赤色であり、体温が38.1度に上昇していたので、氷枕が貼用され始めた。

午前一二時ころ、強制吸引を受けた際、口周囲にチアノーゼが出現したが、すぐ軽減した。

午後二時ころには、体温が38.2度まで上昇し、呼吸浅表と促迫、陥没呼吸が持続し、全身色が暗赤色であつたほか、落陽現象が著明であつた。

午後四時ころには、体温が38.3度まで上昇したが、午後六時ころには38.1度に、午後八時ころには37.4度まで下降したが、その間に、呼吸促迫と軽度の季肋部陥没が見られた。

49  一月二七日(一一一日目)に入ると、呼吸浅表と促迫が見られ、午前三時ころには、体温が三八度に上昇したので、氷枕が続行されたが、午前六時ころには下降し、哺乳力も良好であつた。

午後一時に酸素投与が二リツトルに減量されたが、陥没呼吸も咳嗽時のみ見られる程度であつた。

夕刻には、軽度の心窩部陥没呼吸が見られるのみで、喘鳴もなく、体温も正常であり、夜間にも呼吸困難はなかつた。

50  一月二八日(一一二日目)午前中も、呼吸困難はなかつたが、呼吸不規則であり、ときおり心窩部陥没様呼吸が見られたほか、上方凝視と落陽現象が見られた。

午後には、全身色が比較的良好で、呼吸も安静であつたが、夕刻には、全身が暗紫色となつた。

51  一月二九日(一一三日目)に入つても、呼吸困難はなく、哺乳力も良好であり、一般状態は落着いていた。

52  一月三〇日(一一四日目)に入つても、呼吸に特別の変化はなく、喘鳴、咳嗽ともなかつたが、落陽現象が頻回に見られた。

53  一月三一日(一一五日目)も、ほぼ前日と同様に推移した。

54  二月一日(一一六日目)の午前九時四〇分には酸素投与が打切られたが、格別の変化はなかつた。

しかし、開眼時には眼球の左右振動と回転がときおり見られた。

55  二月二日(一一七日目)にも、呼吸、脈拍に異常なく、哺乳力も良好であつたため、午前一一時にコツトに移床されたが上方凝視と落陽現象がしばしば見られた。

56  二月三日(一一八日目)以降二月五日(一二〇日目)までは、感冒症状も認められず、哺乳力も良好であつたが、上方凝視と落陽現象がしばしば見られた。

57  二月六日(一二一日目)以降は、咳嗽がときおり聞かれ、鼻汁、鼻閉も見られたが、哺乳力は良好で、喘鳴もなかつたため、二月九日(一二四目)午前一一時一〇に退院した。

しかし、その間にも上方凝視と落陽現象が依然持続し、退院時には視線が定まらなかつた。

58  同原告は、退院一週間後の昭和四六年二月一六日に、外来患者として静岡赤十字病院小児科を訪れ、ムルヨノ医師の検診を受けたところ、咳も下痢もなかつたが、眼球運動の異常と落陽現象が見られたため、ムルヨノ医師は、脳性麻痺の疑いを抱いた。

59  その一週間後の同月二三日にも、検診を受けたところ、再び眼球運動の異常が見られたため、ムルヨノ医師は、同原告に脳損傷があるものと判断したが、両親の精神的衝撃を考慮し、このことを両親に告げなかつた。

60  さらに同月二六日、同年三月二日、同月九日、同月一六日、同月二六日と検診を受けた後、同年四月九日、ムルヨノ医師は、同原告が高ビリルビン血症により脳性麻痺を起したので、眼底および視力を検査してほしい旨を同病院眼科に移頼し、同日、同科の伊予田医師から同原告が本症により視力困難である旨のメモを受取つたが、このことも両親に告げなかつた。

61  その後同年五月二八日にも検診は受けたが、同原告の瞳孔は対光反射を示さず、眼球は光を追跡しなかつた。

62  同年六月七日には感冒により同科を受診し、治療を受け、同月二五日にも検診を受けた。

63  同年七月二三日の検診の際には、同原告が手を眼に当てる状態が観察されたため、ムルヨノ医師は、同年九月一七日に至り、母校の慶応義塾大学病院眼科に同原告を紹介し、診断を依頼したところ、同月二二日付をもつて、同科の中野医師から、同原告が本症の高度瘢痕期にあるほか、内斜視と眼球振盪症にも罹患し、全く視力回復の見込みがなく、治療の余地もない旨の報告を受取つた。

<証拠判断、省略>

二原告大池

<証拠>を総合すると、次のような事実が認められる。

1  原告大池の分娩予定日は昭和四六年三月二一日であつたが、同原告は、これより約七〇日早い同年一月一〇日午後八時五八分ころ、静岡赤十字病院産婦人科において出生した。

同原告の生下時体重は一、六〇〇グラム、在胎週数は三〇週であつた。

2  母みち子は当時三五年で、同科において糖尿病の治療を受けていたが、昭和四五年一二月二八日から前期破水により入院していたところ、昭和四六年一月九日から陣痛があり、早産防止のため注射等が施行されたが、前述のとおり、翌一〇日夜に同原告を分娩したものである。

3  同原告は、出生日(一日目)の午後九時ころ、同病院小児科未熟児室に入院し、ムルヨノ医師の担当により保育器医療を受けることとなつた。

同原告の入院時の体重は一、六〇〇グラム、体温は34.9度、脈拍は一四六、呼吸数は五二であつた。

同原告は仮死状態で出生したため、ただちに酸素吸入による蘇生術が施行され、三分後に啼泣を認めたので、保育器(アトムⅤ―五五型)に収容され、五リツトルの酸素の投与を受け始めた。

入院時の全身色は比較的良好であつたが、口周囲および四肢末端にチアノーゼが出現し、全身に浮腫があり、呼吸は呻吟性であつた。

4  同日午後一一時ころには、呼吸が腹式で不整であつたが、呻吟はなかつたところ、翌一月一一日(三日目)午前〇時ころには、全身にチアノーゼが著明となり、呼吸浅表と不整が見られ、午前一時三〇分ころになると、呼吸浅表と促迫のほか、ときどき季肋部の陥没が見られ、顔面に浮腫が著明で、全身色も暗赤紅色になり、さらに午前三時ころには、著明な呼吸促迫と上肢および眼周囲の強度のチアノーゼが見られ、午前六時ころには、一ないし二秒の呼吸休止と呼吸不整が見られたほか、体温が38.1度に上昇し、午前七時ころには、37.5度に下降したものの、呼吸は呻吟性で、著明な促迫が見られた。

午前九時三〇分ころには、右の呼吸状態に加えて、季肋部の陥没が見られ、ときどき一ないし二秒の呼吸休止が見られたほか、口周囲、眼周囲および四肢末端にチアノーゼが著明であり、浮腫も右体側に著明であつた。

午後〇時ころには、常時呻吟性の啼泣があり、呼吸は胸式で、ときどき季肋部部の陥没が見られたが、著明な休止はなかつた。

午後三時ころには、呼吸数が一一六に上昇し、努力的な陥没呼吸が目立ち、呻吟性であり、口周囲、眼周囲および四肢末端にチアノーゼが強く、黄疸も出現してきた。

啼泣はすべて呻吟性で、浮腫も著明であり、全身状態が不良のため、ムルヨノ医師は、重症報告を開始した。

午後六時ころには、陥没呼吸が見られ、呼吸休止はなかつたものの、不整であり、チアノーゼも著明となり、啼泣、運動が乏しかつた。

午後九時ころには、激しい陥没と著明な不整が見られ、午後一〇時ころには、チアノーゼが胸部にまで出現し、午後一一時ころには、呼吸浅表が見られ、ときどき陥没が見られた。

5  一月一二月(三日目)に入ると、右呼吸所見に促迫が加わり、心音は微弱となり、依然チアノーゼが出現していた。

しかし、午前六時ころになると、元気な啼泣が聞かれ、陥没呼吸は著明でなくなり、全身色は赤色となつたが、黄疸と浮腫が続いた。

午後〇時ころには、呼吸浅表も、不整もなくなり、チアノーゼも、下肢末端に強度であつたものの、口周囲には軽度となり、運動も活発であつた。

しかし、その後、再び呼吸浅表と不整が始まり、浮腫も軽減せず、午後六時ころには、全身に強度となつた。

6  一月一三日(四日目)に入つても、呼吸浅表と不整が続き、両下肢に強度のチアノーゼが見られたが、両手と足背の浮腫は軽減してきた。

午前六時ころには、四肢末端のチアノーゼが強度で、呼吸浅表と不整が目立ち、啼泣がなく、午前中は、黄疸が著明で、呼吸促迫も加わり、チアノーゼも口周囲、手掌および足底に著明に出現していた。

午後〇時ころには、呼吸、脈拍とも著しい変化が見られず、午後三時ころ、呼吸促迫が見られたが、困難はなかつた。

しかし、チアノーゼは、手掌および足底に強めに持続していた。

午後六時ころには、呼吸浅表と不整が見られ、四肢末端にチアノーゼが出現していたほか、全身に浮腫が強度であつた。

7  一月一四日(五日目)に入ると、呼吸浅表と不整のほかに、ときどき五秒くらいの呼吸停止が見られ、午前四時三〇分ころには、呼吸不整が著明となつて、呼吸休止時間も一〇ないし一五秒くらいとなつた。

午前六時ころには、口周囲および四肢末端にチアノーゼが認められ、呼吸不整が著明となり、毎分一〇秒程度の休止が四回ほど見られ、同日午前中にも五ないし七秒の休止が不規則に見られ、チアノーゼが口周囲、手掌および足底に持続的に出現したが、午後には呼吸および脈拍に特別の変化はなかつた。

しかし、夜に入ると、再び呼吸が不整となり、五秒ほどの休止が見られ、全身に黄疸が著明で、顔面および四肢末端に浮腫が著明であつた。

同日の体重は一、四二〇グラムであつた。

8  一月一五日(六日目)に入つても右の状態は続いたが、午前六時ころには呼吸休止がおさまつた。

同日午前中は、口周囲および四肢末端のチアノーゼが持続し、ときどき五秒前後の呼吸休止が見られたが、回数は少く、午後には呼吸もおちついてきた。

午後六時ころには、呼吸が浅表で、五秒くらいの休止があり、下肢末端にチアノーゼが強かつたが、夜に入ると、啼泣が活発となつた。

9  一月一六日(七日目)に入つても、呼吸浅表は続き、啼泣時に陥没呼吸を呈したり、三ないし五秒の休止が見られたが、呼吸困難は見られず、チアノーゼも口周囲のみに残存し、浮腫も軽減してきたたきめ、午後五時三〇分、酸素投与量が五リツトルから三リツトルに減ぜられた。

しかし、全身に強度の黄疸が出現したため、光線療法が開始され、一月二二日(一三日目)まで続行された。

また、夜間に35.2度くらいまで体温が低下した。

10  一月一七日(八日目)に入ると、さらに体温が低下し、午前六時ころには35.0度にまで下つた。

呼吸は浅表であつたが、日中は休止が見られず、夕刻に四秒間の休止が見られたものの、困難はなかつた。

11  一月一八日(九日目)に入つても、35.3度くらいの低体温が続き、足底、手掌および口周囲にチアノーゼがあり、午前一〇時ころには一五秒くらいの呼吸休止も見られたが、午後からは休止がなくなり、安定してきた。

同日の体重は一、四一〇グラムであつた。

12  一月一九日(一〇日目)に入つても、三五度台の低体温が続き、前日同様にチアノーゼが続行し、呼吸浅表が見られ。午後には大小の呼吸不整も見られたが、黄疸は軽度となつた。

13  一月二〇日(一一日目)午前〇時ころには、一〇秒くらいの呼吸停止があり、午前中には大小の不整も見られ、低体温と軽度のチアノーゼが持続した。

14  一月二一日(一二日目)に入つても、低体温が続き、徐脈が触知され、チアノーゼも前日同様であつたが、啼泣と運動は活発で、黄疸も軽減した。

同日の体重は一、三九〇グラムであつた。

15  一月二二日(一三日目)午前三時ころ、保育器の不調により器内温度が三七度まで上昇したが、体温は上昇しなかつた。

午後三時ころにも器内温度が三四度まで、上昇し、体温が38.1度まで上昇したが、処置により、午後四時ころには器内温度三一度、体温三七度となつた。

しかし、夕刻には三五度以下の低体温となり、運動と啼泣が殆ど見られなかつた。

16  一月二三日(一四日目)に入つても低体温は続いたが、運動が見られるようになり、呼吸、脈拍ともに異常がほとんどなくなり、チアノーゼも口周囲に残存するにとどまつた。

17  一月二四日(一五日目)には、低体温が続き、口周囲および四肢末端にチアノーゼが出現し、呼吸は浅表で不整があつた。

18  一月二五日(一六日目)にも低体温が続いたが、呼吸不整が軽快し、前日のチアノーゼも消退して眼瞼周囲に軽度に存するのみとなつたため、重症報告は解除された。

同日の体重は一、三六〇グラムの最低値を示した。

19  一月二六日(一七日目)には、低体温が持続し、黄疸が出現したほか、午前、午後ともに、五秒ほどの呼吸休止が毎分一ないし二回見られ、啼泣および運動が不活発であつた。

20  一月二七日(一八日目)にも低体温が続き、口周囲に常時チアノーゼが出現したほか、軽度の呼吸不整や哺乳直後の呼吸促迫が見られた。

21  一月二八日(一九日目)に入つても、前日と同様の状態が続いたが、夜になると、口周囲のチアノーゼは哺乳時にのみ出現するにとどまり、呼吸不整も見られなくなつた。

午後六時には、酸素投与量が三リツトルから二リツトルに減ぜられた。

同日の体重は一、四〇〇グラムに増加した。

22  一月二九日(二〇日目)にも、哺乳時に口周囲にチアノーゼが出現したが、呼吸不整は殆どなくなり、黄疸も軽度となつた。

23  一月三〇日(二一日目)には、午前三時ころ、口周囲にチアノーゼが認められ、午前中軽い脈拍の強弱不整があつたほか、経口哺乳時に呼吸促迫が著明であつたが、黄疸は顔面にのみ残存し、体温もようやく三六度台に上昇しはじめた。

24  一月三一日(二二日目)には、呼吸浅表と口周囲および四肢の軽度のチアノーゼが見られたが、黄疸は軽減した。

25  二月一日(二三日目)には、呼吸、脈拍とも格別の異常がなかつたほか、運動も活発に見られ、体重も一、四五〇グラムに増加した。

このため、二月二日(二四日目)午前一時、酸素投与量が二リツトルから一リツトルに減ぜられた。

26  同日には、呼吸、脈拍とも異常がなく、チアノーゼも増強しなつたが、軽度の冷感が持続し、全身色も優れなかつた。

27  二月三日(二五日目)も、前日とほぼ同様に経過した。

28  二月四日(二六日目)には、前日よりやや良好な状態になり、体重も一、五二〇グラムになつた。

29  二月五日(二七日目)から二月七日(二九日目)にかけては、呼吸、脈拍ともに異常がなかつたが、四肢に冷感が持続し、哺乳力が弱かつた。

30  二月八日(三〇日目)の午後からは、哺乳力も改善され、体重が一、六一〇グラムになり、啼泣や運動も活発になつたが、二月一一日(三三日目)の日中および夜間に口周囲の軽度なチアノーゼが観察され、二月一三日(三五日目)および一四日(三六日目)の各日中にも口周囲のチアノーゼが観察された。

31  二月一五日(三七日目)に入つても、口周囲に軽度のチアノーゼが出現し、全身色は不良であつたが、呼吸状態が二月五日以来安定していたため、午後〇時一〇分、酸素の投与が中止された。

同日の体重は一、七一〇グラムであつた。

32  その後、全身色はあまり良好でなく、同日午後には口周囲にチアノーゼも出現したが、二月一六日(三八日目)以降啼泣や運動が活発となり、呼吸、脈拍とも異常がなかつたため、二月一七日(三九日目)に着衣して、午前一一時にコツトに移床された。

33  同日から二月二二日(四四日目)にかけては、全身色が不良で、ときどき口周囲のチアノーゼや軽度の呼吸促迫が見られ、哺乳力も緩慢で、運動も不活発であつた。

34  二月二三日(四五日目)からは、哺乳力が改善され、二月二五日(四七日目)には、体重も二、〇〇〇グラムに達したが、依然全身色が優れず、二月末から三月始めにかけては風邪症状も見られ、また眼瞼に浮腫が見られた。

35  三月二日(五二日目)からは、運動が活発となり、三月四日(五四日目)には、右眼瞼にのみ浮腫が見られた。

同日の体重は二、二六〇グラムであつた。

その後は、哺乳力も良好で、軽度の鼻閉は続いたものの、一般状態が良好に推移したため、三月二二日(七二日目)午前一〇時に退院した。

同日の体重は二、八二〇グラムであつた。

36  同原告は、四月二三日(一〇四日目)に、育児相談のため静岡赤十字病院外来を訪れ、小児科部長の小川正夫医師の指導を受けたが、同日、眼科の伊予田医師により本症により失明している旨の診断を受けた。

なお、前掲ムルヨノ証言によれば、ムルヨノ医師が静岡赤十字病院に着任した昭和四四年七月当時、同病院小児科未熟室には、旧式で不正確なアイデアル酸素濃度計一台があつたものの、正確なベツクマン濃度計が備付られていなかつたため、ムルヨノ医師は、同年八月ころ、母校である慶応義塾大学の附属病院からベツクマン濃度計一台を借出し、これを用いて自己の勤務する未熟児室内の各保育器について、酸素流量、温度、湿度および流入時間と酸素濃度との関係を調べ、これを一括してグラフにまとめ、これを室内に貼付して酸素の流量と濃度との対応関係を知るための手がかりにしていたことが認められ、他方、ムルヨノ医師は、病院当局に対し、正確な濃度計を購入するよう要請していたが、原告森、同大池の入院当時には間に合わず、昭和四六年一〇月ころになつて、ようやく購入されたことが認められる。

また、同証言によれば、ムルヨノ医師自身にとつても、静岡赤十字病院全体においても、本症による失明例は、右原告が最初であり、本件の経験にもかかわらず、同病院においては、昭和四七年七月当時においても、本症の早期発見を目的とする定期的眼底検査が行われておらず、その後になつてようやく始められたことが認められる。

三原告石川

<証拠>を総合すると、次のような事実が認められる。

1  原告石川の分娩予定日は昭和四六年一月二日であつたが、同原告は、これより約六八日早い昭和四五年一〇月二六日午前一〇時一九分ころ、清水市内の庄司産婦人科病院において、一卵性双生児の第一子として生まれた。

同原告の生下時体重は一、四二〇グラム、在胎週数は三一週であり、双胎第二子(後に「善昌」と命名された。)の生下時体重は一、五〇〇グラムであつた。

母玖美子は、当時二八年で、初産であり、妊娠合併症として妊娠貧血があつた。

2  同原告および善昌の出生直後の全身色は良好で、呼吸や運動も活発であつたが、生下時体重一、五〇〇グラム以下のいわゆる極小未熟児であつたため、同日午後三時ころ、清水厚生病院小児科未熟室に入院し、榊原医師の担当により保育医療を受けることとなつた。

同原告の入院時の体重は一、四一六グラムで、体温は33.3度と著しく低く、脈拍は一一二、呼吸数は五七であり、善昌は、それぞれ一、四六五グラム、三三、七度、一一〇、四二であつた。

同原告および善昌の全身色は赤色であつたが、四肢末端にチアノーゼが強度に出現し、下肢および外陰部には浮腫が出現していたため、ただちに保育器(アトムⅤ―五五型)に分離収容され、2.5リツトルの酸素の投与を受け始めた。

なお、榊原医師は、RLFの予防のためとして、同原告および善昌に対してビタミンEの投与を開始した。

同原告は、同日午後三時三〇分ころ、体温33.6度、脈拍一一八、呼吸数三四を示し、活動力が弱く、夜間にも四肢末端にチアノーゼが出現していた。

呼吸不規則は、入院時から一二月八日(四四日目)まで持続した。

3  一〇月二七日(二日目)に入ると、四肢および顔面を中心として全身に浮腫が出現していたほか、黄疸も出現し始めたが、体温は三五度前後までに上昇し、日中には全身色が良好でチアノーゼも消退していた。

しかし、脈拍は、翌日午前〇時ころまで一〇〇をやや上回る程度の低値を示していた。

4  一〇月二八日(三日目)に入つても、三五度台の低体温が続き、全身浮腫も強度となり、午後からは四肢末梢のチアノーゼが持続的に出現していた。

同日の体重は一、三四二グラムであつた。

5  一〇月二九日(四日目)に入つても、四肢末梢のチアノーゼが持続し、ときには元気な啼泣も見られたが、全身の浮腫と三五度台の低体温は持続した。

同日午前から鼻導栄養が開始された。

6  一〇月三〇日(五日目)にも、三五度台の低体温が持続し、軽度の黄疸が出現していたが、全身の浮腫は軽快してきた。

7  一〇月三一日(六日目)にも、三五度前後の低体温が続いたが、四肢の活動が見られ、体色はやや良好になつた。

同日の体重は一、二五八グラムであつた。

8  一一月一日(七日目)には、午前三時ころ、34.5度の低体温と二九の低呼吸数を示し、黄疸が軽度に出現したほか、全身浮腫も見られ、午後三時ころには、心窩部および肋間腔の陥凹が観察された。

9  一一月二日(八日目)には、午前三時ころ、34.2度の低体温と二三の低呼吸数を示し、午前七時ころまで三四度台の低体温が続き、四肢の活動も弱く、黄疸も軽度に出現していたが、浮腫は消退した。

10  一一月三日(九日目)に入ると、低体温が改善され、日中から夜間にかけて三六度前後を示していた。

11  一一月四日(一〇日目)には、同原告および善昌の浮腫の消退に鑑み、午前一〇時に両名に対する酸素投与量が二リツトルに減ぜられた。

午後には、再び同原告の体温が三五度台に低下した。

12  一一月五日(一一日目)にも、三六度以下の低体温が続き、チアノーゼも出現していたが、午後には、啼泣と活動が見られた。

同日の体重は一、二二七グラムの最低値を示した。

13  一一月六日(一二日目)には、午前三時ころ、黄疸と四肢末梢のチアノーゼが出現し、体温も三六度以下の低値を示していた。

14  一一月七日(一三日目)にも、午前七時ころ、黄疸と四肢末梢のチアノーゼが出現し、体温も前日同様であつた。

15  一一月八日(一四日目)にも、低体温が続き、活動力も弱く、チアノーゼも軽度に出現していた。

16  一一月九日(一五日目)には、午前七時ころ、活発な活動と元気な啼泣が観察され、午後からは体温も三六度台に上昇したが、チアノーゼが前日同様であつた。

同日の体重は一、三四八グラムであつた。

17  一一月一〇日(一六日目には、三六度前後の体温を示し、四肢のみに活発な活動が見られた。

18  一一月一一日(一七日目)には、再び体温が三六度台に回復し、運動も活発に見られたが、なお軽度のチアノーゼが持続した。

19  一一月一二日(一八日目)には、午後三時ころ、35.4度の低体温を示したほか、前日と同様に推移した。

20  一一月一三日(一九日目)から一一月二〇日(二六日目)にかけては、三六度前後から三五度台の低体温が続いたが、哺乳力は良好で、チアノーゼもほぼ消失した。

一一月二〇日の体重は、一、六四〇グラムまで増加した。

21  一一月二一日(二七日目)から一一月二三日(二九日目)午前中にかけては、三六度以下の低体温が続いたほか、緑色血液混入便が排泄され、ときどき吐乳が見られたが、チアノーゼは消失していた。

22  一一月二三日午後からは、体温が三六度台に上昇したが、血液混入便は一一月二四日(三〇日目)まで排泄された。

一一月二四日の体重は、一、七一九グラムであつた。

23  一一月二五日(三一日目)から一二月一日(三七日目)にかけては、ほぼ三六度台の体温が維持され、血液混入便もなく、吐乳も殆ど見られず、体動や元気な啼泣がしばしば観察され、チアノーゼも消失していた。

一二月一日午前一〇時には、同原告および善昌に対する酸素投与量が一リツトルに減ぜられた。

24  一二月二日(三八日目)の午前一〇時からは、栄養が鼻導から経口に切換えられたが、哺乳力は良好であつた。

同日の体重は一、九六九グラムであつた。

25  一二月三日(三九日目)の明け方には、哺乳力が不良であつたが、午前一〇時ころには回復した。

26  一二月四日(四〇日目)から一二月七日(四三日目)にかけては、三六度前後の体温が続いたが、哺乳力は良好で、活動も活発であり、チアノーゼも消失していた。

27  一二月八日(四四日目)の午後五時二〇分ころ、同原告および善昌に対する酸素投与量は0.5リツトルに減ぜられ、翌九日(四五日目)には投与が中止され、同原告は午後二時に、善昌は午前一一時に、それぞれコツトに移床された。

同日の体重は、原告石川が二、一九八グラム、善昌が二、二六三グラムであつた。

28  同原告は、一二月一〇日(四六日目)の午前九時ころ、三八度の高体温と一八二の高脈拍数を示し、午後一〇時ころにも三八度の高体温を示したが、いずれも氷枕の貼用によりまもなく回復した。

29  一二月一一日(四七日目)から、三七度前後の体温が続き、哺乳力は良好で、一二月一五日(五一日目)に、体重が前日より一一五グラム減少したほかは、ほぼ順調に推移した。

30  一二月二六日(六二日目)には、体重が二、七九八グラムになり、哺乳力も良好であつたため、午後三時三〇分、退院した。

善昌も、コツト移床後、順調に発育し、一二月二四日(六〇日目)には、体重が二、七八〇グラムになり、同日、同原告より二日早く退院した。

31  同病院小児科未熟児室においては、未熟児の収容された保育器内の酸素濃度を一日三回程度ドツクマン濃度計により測定し、当日の最高値を看護記録に記載することになつていたが、右記載は必ずしも完全には実行されていなかつた。

同原告および善昌の看護記録には、酸素投与期間中の各日の最高値が次のとおり記載されている(単位はパーセント)。

月日

同原告

善昌

一〇月二八日(三日目)

三〇

三二

一〇月二九日(四日目)

二七

二三

一一月三日(九日目)

三四

三〇

一一月五日(一一日目)

二四

二四

一一月六日(一二日目)

三〇

二七

一一月七日(一三日目)

三六

二六

一一月一一日(一七日目)

二五

二三

一一月一三日(一九日目)

二六

二六

一一月一七日(二三日目)

二六

二六

一一月一九日(二五日目)

二九

三三

一一月二一日(二七日目)

二一

二一

一一月二四日(三〇日目)

二五

二八

一一月二六日(三二日目)

三〇

二六

一一月二七日(三三日目)

二七

一一月二九日(三五日目)

二九

二八

一二月一日(三七日目)

二三

一二月二日(三八日目)

二九

一二月五日(四一日目)

二三

一二月六日(四二日目)

二九

一二月七日(四三日目)

二四

右記載によれば、同原告および善昌に対する酸素投与期間中、保育器内の酸素濃度はおおむね二〇パーセント台に保たれ、高くとも四〇パーセントを超えることはなかつたものと推認するのが相当である。

32  同原告および善昌は、退院後、昭和四六年一月八日および同年二月二六日に、乳児検診のため同病院小児科外来を訪れ、榊原医師の診察を受けたが、体重増加、哺乳力とも良好であつた。

33  榊原医師は、同年三月二六日の乳児検診に際し、同科の森田医師が、母玖美子から、同原告および善昌について「目が見えないようだ。」との主訴を受けたことを聞き、右両名をただちに同病院眼科に受診させた。

34  その結果、同日、同科の林懐良医師から、同原告には両眼の小角膜にRLFが認められ、視力は望みがたいこと、善昌は、角膜は正常であるが、左眼にRLFが認められ、一か月後に再診したいことを返事として受取つた。

35  そこで、榊原医師は、林医師と協議し、同医師を通じて国立小児病院に同原告および善昌を紹介した。

36  同原告および善昌は、同年四月一四日、同病院の植村医師の診察を受けたが、同原告は、RLF瘢痕期Ⅴ度に至つており、完全失明、善昌は、右眼がRLF瘢痕期Ⅱ度、左眼が同Ⅲ度であり、弱視、と診断された。

37  その後、同年八月六日の乳児検診の際に、善昌は、明らかに両親の顔を識別し、哺乳びんを見ると手を伸ばして把もうとするなどして、視力保持の徴表を示した。

被告厚生連は、榊原医師は、昭和四五年一一月二五日(三一日目)に、林医師に原告石川の眼底検査を依頼し、同日検査が行われたが、異常は認められなかつた。と主張し、証人榊原秀三も同旨の供述をしているので、検討すると、証人林懐良の証言によれば、清水厚生病院においては、昭和四五年ころ、小児科医の個別的な依頼により、眼科の林医師が二、三例の未熟児の眼底を観察したことがあつたものと認められるが、果して右二、三例の中に同原告らが含まれていたか否かについては、右証言によつても明確でなく、また、診療録、看護記録等本件に提出された書証を精査しても、同被告主張のような検査がなされたことを窺知するに足る形跡はないから、証人榊原秀三の前記供述部分は、同証人の記憶違いによるものではないかとの疑いが濃く、たやすく措信しがたいので、同被告の前記主張は採用することができない。

なお、前掲榊原証言によれば、清水厚生病院においては、榊原医師が着任した昭和四一年六月から原告石川の失明の時までの間に、本症により失明した未熟児は一例も出ておらず、榊原医師自身にとつても、本症による失明例は、原告石川が最初であつたことが認められ、また、本件の経験に鑑み、同病院においては、昭和四六年ないし昭和四七年から、入院中の未熟児全例に対して、生後三週間後から毎週一回定期的に眼底検査を行うようになつたことが認められる。

四原告塚本

<証拠>を総合すると、次のような事実が認められる。

1  原告塚本の分娩予定日は昭和四八年四月一五日であつたが、同原告は、これより約六五日早い同年二月九日午後八時四〇分ころ、静岡市立病院産婦人科において出生した。

同原告の生下時体重は一、二八〇グラムで、在胎週数は三〇週であつた。母洋子は、当時三〇年で、妊娠回数は三回(うち一回は人工流産)であり、今回は妊娠初期に不全出血と悪阻が見られた。

同原告は、仮死状態に近い状態で出生し、全身に強度のチアノーゼが出現し、呼吸、啼泣とも微弱であつたため、ただちに同病院小児科未熟児センターに入院し、水野医師の担当により保育医療を受けることとなつた。

2  入院時の全身色は良好で、啼泣や体動も見られたが、顔面および四肢にチアノーゼが出現し、体温は35.8度、呼吸数は七二という頻数で、脈拍は一六四を示し、呼吸不整が認められたため、ただちに保育器(アトムⅤ―五五型)に収容され、三リツトルの酸素の投与を受け始めた。

3  二月一〇日(二日目)に入つても、顔面および四肢のチアノーゼと呼吸不整が続き、午前中に陥没呼吸と鼻翼呼吸が見られたほか、終日三四度前後の低体温が続き、また低血糖症であることも判明した。

酸素投与量は、同日午前九時ころ、2.5リツトルに減ぜられたが、同原告の呼吸状態が悪く、血液ガス分析の結果もPO2四六ミリメートル水銀柱(以下「ミリ」と略称する。)という低値を示したため、翌日再び三リツトルに増量された。

4  二月一一日(三日目)に入つても、チアノーゼと呼吸不整が続き、午後には呼吸浅表と黄疸が見られたほか、終日三三度台の低体温が続いた。

5  二月一二日(四日目)に入つても、チアノーゼと呼吸不整と黄疸が続き、午前中はなお三三度台の低体温が続いたほか、微弱な心雑音らしいものも聴取された。

同日の重体は一、一九〇グラムであつた。

6  二月一三日(五日目)に入つても、チアノーゼと呼吸不整と黄疸が続き、午前一〇時三〇分ころから、無呼吸発作が出現し、ときどき呼吸休止が見られたほか、胸骨左縁第三ないし第四肋間に不純音が聴取され、夕刻からはチアノーゼも全身性となり、全身色は不良となつた。

午後二時ころから、黄疸の治療のため、光線療法が開始された。

酸素投与量は、同日、二リツトルに減ぜられたが、同原告の呼吸状態に鑑み、翌日再び三リツトルに増量された。

7  二月一四日(六日目)に入ると、ようやく体温が三六度近くまで上昇したが、呼吸不整とチアノーゼと黄疸は持続し、ときどき呼吸休止が見られ、たまには三〇秒ほど停止することもあつたが、おおむね自発呼吸により回復していた。

しかし、脈拍は微弱気味で、全身色は不良であり、午後九時ころには、剣状突起の陥没が観察され、呼吸停止をきたしたが、手技により回復した。

血液ガス分析の結果、同日のPO2は六四ミリであつた。

8  二月一五日(七日目)に入ると、呼吸休止はときおり数秒間程度見られ、チアノーゼおよび黄疸が持続し、体温も三六度以下で、全身色は不良であつた。

同日の体重は一、一八〇グラムであつた。

9  二月一六日(八日目)にも、呼吸不整、チアノーゼ黄疸が持続し、三五度前後の低体温が続き、全身色は不良であつた。

10  二月一七日(九日目)も、前日とほぼ同様に推移したが、剣状突起および胸骨上窩の陥没呼吸が観察され、呼吸促迫も見られたが、無呼吸発作はおさまり始めた。

11  二月一八日(一〇日目)も、前日とほぼ同様に推移した。

12  二月一九日(一一日目)に入ると、無呼吸発作もおさまり、体動もやや活発になつてきたため、酸素投与量が二リツトルに減ぜられた。

同日の体温は一、一八〇グラムであつた。

13  二月二〇日(一二日目)に入つても、呼吸不整と三五度台の低体温は続いたが、体動が活発となり、一般状態が改善されてきたため、看護記録の記載様式も従前より簡易なものになつた。

14  二月二一日(一三日目)には、呼吸不整と三五度台の低体温が続いたほか、胸骨左縁第二肋間に微弱な心雑音が聴取され、肺呼吸は、なお弱かつたが、左右等強であつた。

血液ガス分析の結果、同日のPO2は七八ミリであつた。

15  二月二二日(一四日目)に入つても、呼吸不整と三五度台の低体温が続いた。

同日の体重は一、二一〇グラムと僅かに増加した。

16  二月二三日(一五日目)に入ると、体温がようやく三六度前後に上昇したが、皮膚色は暗褐色様を呈し、呼吸不整も持続した。

17  二月二四日(一六日目)には、呼吸不整が続いたほか、肺呼吸が弱かつた。

18  二月二五日(一七日目)からは、体温が三六度台を維持するようになり、同日には一時酸素投与量が1.5リツトルに減ぜられたが、呼吸不整は四月四日(五五日目)ころまで続いた。

二月二六日に体重が一、三〇〇グラムに達した。

19  二月二七日(一九日目)には、心音も清澄で、肺呼吸はほぼ規則的になつた。

20  三月二日(二二日目)には、心音が清澄で、呼吸は弱かつたものの、促迫と無呼吸は消失した。

21  三月三日(二三日目)には、啼泣と体動も活発になり、哺乳力も上昇し、三月五日には体重が一、五四〇グラムに増加した。

22  三月六日(二六日目)には、ときおり呼吸が不規則であつたが、陥没呼吸は消失し、運動も活発になつた。

23  三月八日(二八日目)には、酸素投与量が一リツトルに減ぜられた。

血液ガス分析の結果、同日のPO2は六四ミリであつた。

24  三月九日(二九日目)には、運動が良好であつたが、皮膚色はなお蒼白ないし褐色を呈していた。

午後六時には、酸素の投与が中止された。

25  三月一〇日(三〇日目)には、呼吸が規則的になり、心音は完全に清澄で、啼泣も活発となつたが、体温は、三六度前後にとどまつていた。

26  三月一六日(三六日目)には、哺乳力が良好となつたので、鼻導栄養から経口哺乳への切換えが開始された。

27  三月二三日(四三日目)には、一般状態が良好で、全量経口哺乳が可能となつたため、鼻導カテーテルが抜去された。

28  三月二七日(四七日目)には、活動性が適度にあり、三月二九日には体重が二、一一〇グラムに増加した。

29  三月三〇日(五〇日目)には、心音が清澄であつたが、日中は三五度台の低体温を示していた。

30  四月一日(五二日目)の午前九時には、保育器の半開放が行われ、翌二日の午前九時からは全開放が行われた。

同日の体重は二、二〇〇グラムであつた。

31  四月三日(五四日目)には、なお皮膚色が褐色様を呈していたが、四月五日(五六日目)の午前一〇時にはコツトに移床された。

32  同日からは、呼吸不整もほぼ消失したが、四月七日(五八日目)からは鼻閉を示し、四月一〇日(六一日目)には風邪症状を示し、退院直前までヒスタミン剤の投与を受けた。

四月九日の体重は二、三九六グラムであつた。

33  四月一一日(六二日目)には、なお黄疸が遺残していた。

34  四月一七日(六八日目)に、水野医師は、静岡県立中央病院眼科から静岡市立病院に非常嘱託医として診療に訪れていた藤堂医師に同原告の眼科検診を依頼し、同原告を受診させたところ、本症に罹患している旨の診断を受けたため、ただちに同医師から本症の治療法についての説明を受け、光凝固を受けさせるべく国立小児病院または浜松医療センターへ転院させた方がよいと考え、翌一八日、同原告の両親に対し、同原告が本症に罹患していることを話し、治療のため国立小児病院を紹介した。

35  しかし、四月一九日(七〇日目)に静岡市立病院において実施された脳波検査の結果によれば、同原告は光刺激に対する反応を示さず、既に失明していることがほぼ確実となつた。

36  同原告は、四月二三日(七四日目)に、体重二、八八二グラムにまで成長し、午前一一時ころ退院し、翌二四日に国立小児病院に入院し、四月二六日(七七日目)に光凝固術を受けたが、既に治療の適期を失していたため、奏功せず、失明が確定した。

37  静岡市立病院未熟児センターにおいては、未熟児の収容された保育器内の酸素濃度を一日二ないし三回ほどベツクマン濃度計により測定し、当日の最高値を看護記録に記載していたが、同原告の看護記録には、酸素投与期間中の各日の最高値が次のとおり記載されている(単位はパーセント)。

月日

流量(リツトル)

濃度最高値

二月一〇日(二日目)

二・五

三八

二月一一日(三日目)

三七

一月一二日(四日目)

三九

二月一三日(五日目)

三七

二月一四日(六日目)

三六

二月一五日(七日目)

四〇

二月一六日(八日目)

三七

二月一七日(九日目)

四一

二月一八日(一〇日目)

三四

二月一九日(一一日目)

三〇

二月二〇日(一二日目)

三三

二月二一日(一三日目)

三六

二月二二日(一四日目)

三八

二月二三日(一五日目)

三七

二月二四日(一六日目)

四〇

二月二五日(一七日目)

四四

二月二六日(一八日目)

三八

二月二七日(一九日目)

二九

二月二八日(二〇日目)

三七

三月一日(二一日目)

三六

三月二日(二二日目)

三二

三月三日(二三日目)

三七

三月四目(二四日目)

三七

三月五日(二五日目)

三七

三月六日(二六日目)

三七

三月七日(二七日目)

三八

三月八日(二八日目)

三七

三月九日(二九日目)

二八

右によれば、原告塚本の収容された保育器においては、流量が三リツトルの場合においても、二リツトルの場合においても、最高濃度には有意な差がなく、ほぼ四〇パーセント以下におさまつていたものということができる。

なお、前掲水野証言によれば、水野医師が昭和四〇年一〇月に静岡市立病院に着任して以来原告塚本の失明に到るまで、同病院においては、本症による失明例がなく、原告塚本より未熟な生下時体重九六〇グララの児に対して相当長期間の酸素投与を行つた事例もあつたが、格別の後遺症も残さず救命に成功したことが認められ、また原告塚本の失明後、同病院には眼科医が常勤するようになり、未熟児の眼科的管理もより厳密に行われるようになり、光凝固術を受けさせるため、毎年二例くらいの未熟児を名古屋市立大学に移送するようになつたが、昭和五〇年に移送した一例は、移送当時の体重が二、二〇〇ないし二、三〇〇グラムであつたところ、移送途中に無呼吸発作ないし心臓停止を頻発し、移送先においてただちに蘇生術を受けたものの、光凝固を受ける前に容態が悪化してしまつたことが認められる。

第三各担当医師の過失について

一医師の過失の判断基準

1 医療行為は、人の身体の健全性にかかわり、ときには人の生命を左右するほどの重大な意味をもつものであるから、これに携わる医師は、医療の専門家として、高度の臨床医学の知識にもとづき、自己のなしうる最善を尽して患者の生命と身体の健全性を守るべき義務を担つており、いやしくも右義務に違反して、とるべきでない措置をとり、あるいはとりうべき必要な措置をとらないことによつて、最善を尽せば守りえたはずの患者の生命と身体の健全性を害する結果を生じたときは、当該医師には法律上の過失があつたものと判断せざるをえない。

2 しかしながら、医療行為は、各種の医療制度や人的・物的制約のもとに、時々刻々複雑に変化する病理現象に対し、有限の知識と能力と時間的余裕をもつて対処するものであるから、そこには、病理現象に関する不完全な情報にもとづいて当該病理現象の変化を予測し、これにもとづいて当該病理現象に対処するために最も有効かつ安全と判断される方法を実施し、その当該病理現象に対する効果を観察し、これが有効でないと判断される場合には、当該病理現象に対処するための別の方法を実施してその効果を観察したり、あるいは当初の予測そのものを修正し、これにもとづいて新たな方法を実施してその効果を観察する、という試行錯誤の方法をとらざるをえず、多くの場合にはこの方法により当該病理現象の変化を適切に予測し、これにもとづいて最も有効かつ安全な対処方法を実施することができるけれども、ときには当初に実施した方法が当該病理現象自体に予想外の影響を与え、その変化に対する予測をかえつて困難にすることもあり、また当該病理現象に関する適切な予測に到達するより先に当該病理現象自体が進行して最終的な悪結果を生じてしまうことも少くない。

また、医療行為のうちでも特に治療行為は、本来人体のもつ自然治癒力に側面から支給を与えるという性質を有している反面、人体の生理現象に対して多かれ少かれ人工的な影響を与えるという性質をも有しており、特に今世紀に入ると、有機合成化学、生化学、製薬学等の発達により薬物療法が著しく発展し、また各示の手術装置や人工心肺、麻酔法、輸血・輸液法等の発達により外科的手術の適用領域が拡大されたため、治療行為の有する第二の性質が急速に重視されるようになり、治療行為の有効性と安全性をどのように調和させるか、という問題が、薬物療法における副作用の問題、手術療法における医的侵襲の問題などとして、現実的・具体的に生起してきていることは、公知の事実である。

3 医療行為は、右に述べたような内在的特質を有するほか、臨床医学の実践としての性質を有するものであるから、医師は、何よりもまず当該医療行為のなされた当時における臨床医学の水準的知識に従つて医療行為を実施しなければならない。

ところで、臨床医学は日々進歩して止まないものであり、その知識の体系は確固不動のものではなく、特にその先端部分においては、常に新たな病理現象に関する新たな仮説が生成発展しつつあるのであつて、そのうちのあるものは経験科学的な検証に耐えることによつて確実な知識として臨床医学の知識体系の中に定着してゆくけれども、他の多くのものは経験科学的な検証に耐えられなかつたり、あるいは反証によつて覆されたりして淘汰されるのが通常であり、このような過程を経て定着した最新の仮説がその当時における臨床医学の水準的知識を構成するものと考えられる。

従つて、医師が従うことを要求される臨床医学の水準的知識とは、臨床医学の最先端において生成発展しつつある新たな仮説そのものではなく、経験科学的な検証に耐えることによつて確実な知識として臨床医学の中に定着した段階に達した最新の仮説を意味するものと考えられる。

しかしながら、今日の臨床医学は、前世紀以来の急速な発展により既に一人の医師の学習能力をはるかに超えた厖大な知識の体系となつており、内科、外科、小児科、眼科、産婦人科、精神科など各診療科に対応する専門分野に分化しているばかりでなく、一専門分野の中においてもさらに細かい専門分野に細分化しつつあり、他方、従来の専門分野の各対象領域の中間に位置する病理現象が解明されるに伴い、これら専門分野の中間領域に新たな専門分野が開拓されつつあることも、公知の事実である。

わが国の医療法制は、いわゆる専門医師制度を採用していないけれども、右に述べたような臨床医学の今日的状況からすれば、もはや一人の医師に臨床医学の全専門分野における水準的知識の保持を期待することは不可能というべきであり、実際にも、一専門分野について高度の医学知識を有している医師の多くは、他の専門分野についてほとんど水準的知識を有しておらず、事実上の専門医として医療行為に携わつているのが現状である。

従つて、このような医師に対しては、原則として、自己の専門分野ないしはその隣接分野における臨床医学の水準的知識に従つて医療行為を実施することを期待しうるにとどまり、これをこえた領域における臨床医学の水準的知識に従つて医療行為を実施することを期待するのは実際上かなり困難というべきである。

4 さらに、医療行為は、何よりも実践であり、特に今日においては、単に医師の頭と手足のみならず、これを補助する相当数の人員と設備を動員しての実践であるから、そこには、当該医師のおかれている社会的・経済的・地理的な環境からの外在的な制約が当然に作用してくるはずである。

もとより、このような外在的制約は、社会生活の進歩・発展に伴つて全般的には除去されてくるものであるが、この除去の過程は必ずしも一様に進行するわけではなく、社会的・経済的・地理的な諸要因の複雑な相互関連によつて多様に進行するのが通常であり、しばしばある地域よりも他の地域において先に進行したり、ある医療施設よりも、他の医療施設において遅れて進行したりすることがあるのである。

従つて、特定の地域における特定の医療施設に所属する医師に対するこのような外在的制約の作用は、基本的には当該地域の特質(都市としての規模の大小や学術的中心からの距離、経済力、文化的水準など)と当該医療施設の特質(大学等の研究機関に附設された病院であるか、国公立の専門病院であるか、一般総合病院であるか、普通病院であるか、候人開業医の診療所であるかなど)によつて決定されるものと考えられる。

5 以上のような医療行為の諸特質に照らすと、具体的にある医療行為が悪い結果を生じた場合において、当該医療行為を行つた医師に法律上の過失があるか否かを判断するためには、(一)医療行為の内在的特質、(二)当時の臨床医学の水準的知識、特に事実上の専門医として医療行為に携わつている医師に関しては、当該医師の専門分野およびその隣接分野における水準的知識、(三)当該医師のおかれている社会的・経済的・地理的な環境からの外在的制約、などを総合的に考察し、当該医療上の措置または不措置が社会的非難に値いするか否かによつて、これを決すべきものと考えられる。

従つて、被告ら病院の各担当医師の過失の有無を判断するためには未熟児の保育医療および本症に関する臨床医学の知見をまず概観し、次いで各担当医師の医療行為と原告らの失明との間の因果関係を検討し、最後に各担当医師の過失の存否ないしはその具体的内容を検討するのが相当と考えられる。

二未熟児保育医療の特質

<証拠>を総合すると、次のように認められる。

1  未熟児の概念

一九五〇年の世界保健機構による定義によれば、未熟児とは生下時体重二、五〇〇グラム以下の出生時をいい、この定義に従う限り、未熟児と低体重出生児とは同一の概念を意味することばとなる。

しかしながら、保育医療の必要性という観点から見る限り、未熟児の重要な性質は、その身体の各機能が胎外生活を送るに十分なほど発達・分化していないという点にあり、このため、未熟児の定義として、生下時体重二、五〇〇グラム以下という要件のほかに、在胎週数三七週未満の出生児という要件を加える見解もあり、アメリカ小児科学会はこれを採用している。

いずれの定義に従うにせよ、本件各原告らが典型的な未熟児であることは、前認定の各原告らの生下時体重および在胎週数に照らして明らかである。

2  未熟児の機能的負因

未熟児は成熟児に比べ、機能的に次のような不利な点を有している。

(一) 熱の産生が少く、体表面積が相対的に大きく、皮下脂肪組織が少いため、体温が外界の温度の変化に伴つて動揺しやすい。

(二) 呼吸中枢が未熟で、胸郭が軟弱で、呼吸補助筋の発育が不良であり、肺胞の内被細胞は立方形で、肺の毛細管の数と分布が不十分であり、血液酸素張力の低下や炭酸ガス張力の上昇に対して行われる呼吸運動の調節が不完全である。

未熟児の呼吸は浅く、速く、不規則で、しばしば無呼吸状態に陥る。

(三) 胃の容量が小さく、噴門の閉鎖が不完全であるため、胃内容物の逆流が起りやすく、また哺乳後、胃が膨満して横隔膜の運動(呼吸運動)を障害しやすい。

(四) 体内で産生された間接ビリルビンを直接ビリルビンに転換する能力が低いため、間接ビリルビンの蓄積をきたし、高度もしくは遅延する新生児黄疸をみることが少くない。

(五) 腎機能についていえば、幼若未熟児は浮腫傾向が強い。

(六) 血管壁は脆弱であり、プロトロンビン値の低下をみることが少くないため、頭蓋内出血を起しやすい。

(七) 小さな未熟児ほど刺激に対する反応が少く、呼吸中枢の発達も不良である。

(八) 抗体を産生する能力が低いため、感染を受けやすく、また感染を受けると重篤になりやすい。

前認定の各原告らの臨床経過によれば、個体差はあるものの、各原告らが右(一)、(二)、(四)、(七)および(八)の特徴を多かれ少かれ示していることは明らかである。

3  未熟児の罹患しやすい疾患

以上のような機能的負因から、未熟児は、成熟児に比べ、次のような疾患に罹患しやすく、また重症となり、かつ臨床的な特徴がはつきりしない傾向がある。

(一) 呼吸障害症候群(Respiratory Distress Syndrome、以下「RDS」と略称する。)

肺拡張不全およびIRDS(肺硝子様膜症)は、未熟児の重要な死因である。

IRDSは、生後数時間ころからの原因不明の呼吸困難であり、臨床的には、頻数呼吸、陥没呼吸、呼気性呻吟などの症状が目立ち、他に無呼吸発作、チアノーゼ発作などがあげられ、病理学的には栗粒肺拡張不全が認められ、しばしば硝子様膜の形成を伴つている。

IRDSが増強すると、呼吸停止の発作を繰返すようになり、数日の経過で死亡することが多い。

(二) 肺出血

生後二ないし五日に急に元気がなくなり、顔面蒼白となり、チアノーゼ、呼吸困難、胸骨陥没などをきたし、予後は不良である。

(三) 頭蓋内出血

外傷性と無酸素性があり、未熟児では、成熟児に比べ、後者のものが多い。

後遺症として、脳性麻痺を残すことが多い。

(四) 感染症

肺炎、流行性下痢、ブドウ球菌感染症などがあるが、特に肺炎は感染症による死亡の半数以上を占め、呼吸数の増加、チアノーゼ、呻吟、肋間腔の陥凹、無呼吸発作など、いわゆるRDSの症状を示す。

(五) 核黄疸

未熟児では、血液型の母子間不適合とは関係のない新生児黄疸が核黄疸を惹起することがある。

後遺症として、脳性麻痺を残す。

(六) 先天性奇形

未熟児は成熟児に比べて先天性奇形が多い。

(七) 貧血

生下時体重が少ないほど、貧血は高度となる。

(八) クル病

(九) RLF

ほとんど未熟児に限つて罹患する。

4  未熟児の死亡率と死因

以上のような機能的負因および罹患しやすい疾患のため、未熟児の死亡率は、成熟児に比べて著しく高い。

これを生下時体重との関係で見ると、出生一、〇〇〇に対して次表のような割合になる、という統計がある。

生後の期間

生下時体重(g)

四週未満の死亡

六か月未満の死亡

一二か月未満の死亡

一、〇〇〇未満

九六六・七

九六六・七

九六六・七

一、〇〇〇ないし 一、四九九

六六二・六

六九六・三

七〇五・五

一、五〇〇ないし 一、九九九

四〇一・七

四四〇・五

四五二

二、〇〇〇ないし 二、四九九

一〇〇・七

一二三・八

一三三・六

二、五〇〇以上

一六・四

二七・四

三三・二

上記統計によれば、生下時体重一、五〇〇グラム前後の未熟児の救命率は、おおむね五〇パーセント弱であつたと考えられる(もつとも、前掲戊一九号証によれば、右統計の基準時は少くとも昭和四二年より前であつたと認められるので、本件各原告らの救命率を右統計からただちに推認することは妥当でなく、後に三の13の(三)に紹介する山内論文もこのことを示唆している)。

また、未熟児の死因について見ると、一〇一の剖検例から次表のような結果が出ている。

死因

比率(%)

新生児出血症

頭蓋内出血

一九・八

四三・五

肺出血

一七・八

その他

五・九

肺換気異常

肺発育不全

二〇・八

二三・七

肺拡張不全

肺硝子様膜症

三・九

感染症

肺炎

一一・〇

一六・九

その他

五・九

その他

臓器未熟

九・〇

核黄疸

三・九

奇形

二・九

上記結果によれば、未熟児の死因の約半分は肺の疾患であることが明らかである。

5  未熟児の保育医療の原則と本件各医療行為

以上のように見てくると、未熟児の保育医療の原則は、(一)呼吸の確立、(二)体重の保持、(三)感染の防止、にあると考えられ、これらの原則に従う限り、特に未熟性の強い児に対しては、保育器に収容したうえ、呼吸の確立に必要かつ十分な酸素を投与し、体温の保持に必要かつ十分な保温を行い、感染の防止のために、できるだけ接触を制限し、他の児から隔離することが要請されていると考えられる。

なお、日本小児科学会新生児委員会は、昭和四三年一〇月に、特に生下時体重二、〇〇〇グラム以下の未熟児を念頭に置き、二〇床以上の新生児床を有する施設を想定し、未熟児管理の向上を期して、「未熟児管理規準」を勧告して公表したが、その内容は、前述の原則を具体化したものといつてよく、特に未熟児に対する酸素投与については、「酸素投与は医師の指示によつて行う。保育器内の酸素濃度は定期的に測定、記録されなければならない。」と述べ、濃度や投与期間について特に制限的な態度をとらず、これを各担当医師の裁量に委ねている点は注目さるべきである。

そして、以上のような未熟児の保育医療に関する原則を前認定の各原告らの臨床経過に適用するならば、被告ら病院の各担当医師らの本件各医療行為は、おおむね右原則の要請に適合するものであつたということができ、各原告らの救命は各担当医師の医療行為に負うところが大であつたといわなければならない。

もつとも、ムルヨノ医師が、原告森に対して当初約一一日間、同大池に対して当初約六日間、それぞれ五リツトルの酸素を投与した点については、同じ型の保育器に収容されていた原告石川、同塚本が当初それぞれ2.5リツトル、三リツトルの酸素投与しか受けていなかつたことと対比すると、やや多過ぎるのではないかとの感がないわけではない。

しかしながら、各原告らの臨床経過、特にその呼吸状態、チアノーゼ浮腫の出現状況を仔細に観察すると、肺換気機能は原告森が最も悪く、原告石川が最も良かつたものと認められ、ムルヨノ医師の酸素投与方法が未熟児の保育医療に関する原則に背馳し、医師としての裁量を逸脱したものとまでいうことはできない。

また、ムルヨノ医師が原告森、同大池に対する酸素投与に際して保育器内の酸素濃度を定期的に測定しなかつた点は、前掲「未熟児管理規準」に適合しないものというべきであるが、右「規準」の起草者の一人である証人村田文也も供述するように、右「規準」は、あくまで臨床医学の立場から、わが国における未熟児医療の実際を向上させようという指導的な意味をも含めて作成されたものであつて、もとより法的義務の設定を目的としたものではないのであるから、右「規準」に適合していないということのみをもつて、ただちに右の点が法律上の過失を構成するものということは妥当でない。

もつとも、被告日赤のような大規模な医療法人の経営する総合病院の未熟児室において、昭和四五、六年当時正確な酸素濃度計が備付られていなかつたという点は、当時の静岡赤十字病院院長である証人細川一郎が供述するように予算上の制約があつたとはいえ、病院管理体制の不備を示すものといわざるをえず、法的義務の問題は別として、遺憾なことであるというほかはない。

三本症に関する臨床医学の知見

<証拠>ならびに弁論の全趣旨を総合すると、次のように認められる。

1  欧米における本症の発見とその研究

一九四二年、ボストンの医学者テリーは、未熟児の水晶体後部に灰白色の膜状物を形成する失明例を報告し、これをRLFと命名したが、当初はこれを眼の先天異常と考え、水晶体血管膜を含む胎生血管の遺残、過形成によるものとしていた。

その後、アメリカにおいて保育器による未熟児医療方式が普及するに伴つてRLFが急激に増加し、一九五〇年以降乳児失明の最大原因となつたため、RLF対策委員会が設置され、大規模な臨床的、実験的研究が行われた。

一九四九年、オーエンスらは一年間に二一四人もの未熟児の眼底を注意深く観察し、胎生期の硝子体組織の遺残は生出後まもなく消失し、RLFの発生には関係のないことを確認して先天異常説を否定し、また、本症活動期の病変を正確に観察報告し、有名なオーエンスの分類の基礎を固めたが、本症の原因についてはビタミンE欠乏説を唱え、酸素欠乏説をとつたインガルス(Ingalls)やスチユーツイク(Szewcyzk)らと対立した。

また、同年には、リースらにより、RLFを相似た臨床所見を呈する第一次硝子体過形遺残、網膜異形成、先天性網膜襞、先天性鎌状剥離などの先天異常との区別が明確にされるに至り、その後の研究に伴い、本症の名称も、一九五八年、ソースビー(Sorsby)によつて(Re-tinopathy of prematurity(後に、植村医師によつて「未熟児網膜症」または「未熟網膜症」と邦訳された。)が適切であるとされ、RLFは、徐々に本症活動期Ⅳ期以後または瘢痕期Ⅳ度以上の状態をさすことばとして用いられるようになつていつた。

一九五一年、オーストラリアのキヤンベルは、RLFの原因として、未熟児保育時における酸素の過剰を唱え、この説は、その後多くの疫学的研究によつて確認され、さらにキンゼイらの広範な統計的研究の結果、酸素供給の制限によつて明らかにRLFの発生率が減少することが認められた。

一九五四年、アメリカ眼科学会におけるRLFに関するシンポジウムにおいて、(一)未熟児に対する常例的な酸素投与の中止、ピチアノーゼまたは呼吸障害の兆候を示すときにのみにおける酸素使用、(三)呼吸障害の消失したときにおける酸素投与の即時中止、という要請が出され、これによつて酸素の使用が厳しく制限された結果、RLFの発生頻度は劇的に減少し、一九五〇年代末期には、もはや過去の疾患と考えられるようになつた。

しかし、一九六〇年、アベリーとオツペンハイマー(Oppenheimer)は、一九四四年ないし一九四八年の酸素を自由に使用していた期間と一九五四年ないし一九五八年の酸素を厳しく制限するようになつてからの期間とについて、IRDSによる新生児の死亡率を比較検討し、後者において、その死亡率が上昇したことを報告したため、その後IRDSのある児に対しては徐々に高濃度の酸素補給が行われるようになつた。

そのため、一九六七年、アメリカのパツツは、再び本症の増加する可能性が強くなつてきたことを警告し、同年、国立失明予防協会主催の未熟児に対する酸素療法を検討する会議が小児科医、眼科医、生理学者、生化学者を集めて開かれ、(一)酸素投与の規準、(二)酸素療法を受けた乳児の臨床的兆候、動脈血PO2値の測定、眼底所見との関連、精神運動発達に関する情報収集の必要性、(三)環境酸素濃度看視装置の改善の必要性、(四)適切な観察がなしえない場合の酸素使用に関する警告の必要性、(五)血管運動を支配する因子における基礎的研究の必要性、などの問題点がとり上げられ、また、(一)酸素療法を受けた未熟児はすべて眼科医がこれを検査すべきこと、および、(二)未熟児は生後二年まで定期的に眼の検査を受ける必要性のあること、の二点が強調された。

2  わが国における未熟児医療の発達と本症の発見

わが国においては、一九四〇年ないし一九五〇年にアメリカにおいてRLFが多発した当時は、いまだ未熟児の哺育施設は少なく、一九五四年(昭和二九年)以後の酸素療法の制限後に閉鎖式保育器による未熟児保育が漸次普及してきたため、本症に対する臨床医の関心が薄かつたが、未熟児に対する酸素補給に関しては、外国例(アメリカのべドロツシヤン(Bedrossian)の説など)に学んで、一般的に四〇パーセントを超える高濃度の酸素投与を警戒すべきことや、急激な投与中止を慎むべきことなどが未熟児保育に携る医師の間に一応侵透していたため、アメリカにおけるようなRLFの大発生を見ることなく、昭和五〇年ころまで推移した。

その間、昭和三〇年二月には、徳島大学眼科の水川孝らが、「臨床眼科」九巻二号に、RLFの四症例を報告し、同年三月には、東北大学眼科の高橋晴夫が同誌九巻三号にRLF一例を報告し、昭和三六年八月には、弘前大学眼科の工藤高道らが同誌一五巻八号にRLF三例を報告したが、眼科医による関心を呼ぶには至らず、小児科医または産科医による発症例の報告は皆無に近い状態であつた。

また、昭和三九年二月には、弘前大学眼科の松本和夫らが、同誌一八巻二号において、本症活動期の二例に対し副腎皮質ホルモン剤のプレドニン、蛋白同化ホルモン剤のジユラボリンおよびATPを併用して治療を試み、良好な結果を得た旨を報告し、本邦において本症の治療に関する最初の文献を発表したが、本症に対する副腎皮質ホルモン剤等の効果については、その後の追試により自然寛解との間に有意な差を見出しがたいといわれ、また、感染症に罹患しやすくなるなど副作用も指摘されており、現在ではその治療効果は消極に解されている。

3  植村医師による啓蒙活動の開始

他方、当時慶応義塾大学眼科学教室の専任講師をしていた植村医師は、昭和三七年ころから昭和三九年ころまでの間に、同大学眼科外来を訪れる本症患者の数が急速に増加し、昭和三九年には一〇例の瘢痕期症例を数えるに至つたことや、その当時、網膜芽細胞腫と診断されて摘出された眼球が病理組織学的検索によりRLFと判明したことが報告されていたことに着目し、酸素濃度を四〇パーセント以下にとどめる未熟児の保育方法によつても失明または弱視の発生する可能性があることを認め、また、小児科医、産科医はもとより、眼科医の中にも、RLFは既に過去の疾患であるとの考えを抱いている者が多いことを知り、同大学助教授になつた直後の昭和四〇年六月、「小児科」六巻六号において、近年の閉鎖式保育方法および未熟児に対する酸素療法の普及によつて本症の発生頻度が増加していることや、本症の発生に酸素療法が重要な関係を有することを指摘するとともに、本症の臨床経過の分類として、スチューツイクの分類とオーエンスの分類を紹介し、治療法として、活動期の可逆性のある時期に発見して、適当の酸素供給またはACTHもしくは副腎皮質ホルモン剤の投与を行うことを提唱して、小児科医の注意を喚起した。

もつとも、右治療法のうち、「適当の酸素供給」という点については、単にベドロツシヤンやパツツやマンスコツト(Manschot)の学説ないし報告を簡単に紹介するにとどめ、産科医や小児科医の治療指針となりうべきものを具体的に提示するには至つておらず、また薬物療法については、昭和四五年一二月発行の「日本新生児学会雑誌」六巻三号において、自から、これを比較的初期から使用しても進行を阻止しえなかつた例に遭遇したこと、治癒した例についてもこれが薬物によるのか自然治癒によるのかの判定ができなかつたことを認め、結局治療効果を消極的に評価するに至つている。

4  国立小児病院の開設と本症研究の進歩

植村医師は、昭和四〇年一〇月、小児のための総合医療施設として東京都世田谷区に新たに開設された国立小児病院の眼科医長に就任し、小児眼科を担当することになつたが、外来患者の中に本症の瘢痕期症例の多いことから、活動期症例の実態を知るため、未熟児、新生児の担当医長である奥山和夫医師と共同し、未熟児の定期的眼底検査を施行し、その結果を、昭和四二年二月発行の「臨床眼科」二一巻二号に発表した。

この中において、同医師は、昭和四〇年一一月から昭和四一年四月までの半年間に同病院外来を訪れた本症瘢痕期症例は四〇例八〇眼に達し、これをオーエンスの分類により程度を分けたところ、軽度ないし中等度(Ⅰ度ないしⅢ度)が四九眼、重度(Ⅳ度およびⅤ度)が三一眼であつた。

と述べ、また、活動期症例の実態を把握するため、同病院未熟児室において、昭和四〇年九月から週一回の定期的眼底検査を行つたところ、昭和四一年八月までの一年間に眼科的管理を施行した七八名の未熟児のうち一三名(16.6パーセント)に本症活動期の病変を発見したが、その内訳は、Ⅰ期八例、Ⅱ期三例、Ⅲ期一例、Ⅴ期一例であり、Ⅰ期のうち七例とⅡ期のうち一例は自然寛解して正常眼底に復し、Ⅱ期のうち残り二例には副腎皮質ホルモン療法を施し、一例は治癒したが、他の一例はⅡ度の瘢痕を残し、Ⅲ期、Ⅴ期の各一例は自然寛解もせず、治療によつても改善を見ず、それぞれⅡ度、Ⅴ度の瘢痕を残し、結局、発症しても、61.5パーセントは、自然または治療により観察可能な変化を残さず治癒したことを指摘し、さらに、酸素療法との関係については、濃度は二五ないし四〇パーセントであり、期間はことに一、五〇〇グラム以下の低体重児の本症発症例に長かつたこと、酸素不使用例にも軽症ながら三例の発症が認められたことを報告し、最後に、一、五〇〇グラム以下の未熟児の眼底の特徴的所見として、

(一) 乳頭は、著しく蒼白で、細長型または腎臓型を呈すること

(二) 眼底は、検眼鏡視野内において部分的にしか焦点が合わず、そこに見られる血管、ことに動脈は狭細であり、その走行は縦方向に走ること、

(三) 周辺、ことに耳側周辺網膜は灰白色あるいは蒼白色を呈すること、

(四) 著明な硝子動脈遺残があることを指摘し、このような所見を呈する眼底を「未熟眼底」と呼称し、活動期症例の発症は、ほとんど未熟眼底を示す症例から出ていることを報告した。

本論文は、昭和四一年秋の第二〇回臨床眼科学会における講演の内容を文章化したものであるが、右講演に際しては、名古屋市立大学眼科の馬嶋昭生ほか四名の眼科医が質問と追加を行つており、このころから、本症に対する眼科の専門研究者の関心が高まつていつたものと考えられる。

なお、右論文によれば、国立小児病院においては、昭和四〇年九月から未熟児に対する定期的眼底検査が行われていたことが認められるが、右論文の内容自体からみて、右検査は、本症活動期の実態を把握することを主たる目的とするものであつたと考えられ、本症に対する効果の実証された治療法と結び付いていたわけでもなく、また、国立の小児専門病院において、優秀な専門研究者によつて先駆的になされていたものであるから、これをただちにその他の未熟児保育医療機関に推及することは妥当でないと考えられる。

5  植村医師による啓蒙活動の本格化

植村医師は、右論文とほぼ同内容の論文を、昭和四二年八月発行の「医療」二一巻八号にも発表して、他の診療科の医師に対しても本症に対する関心を呼び覚まそうと努め、また、昭和四三年九月発行の「眼科」一〇巻九号において、昭和四一年九月から昭和四二年八月までの一年間に眼科的管理を施行した八八例の未熟児のうち六例(6.8パーセント)に活動期症例を観察し、うち三例(五〇パーセント)は自然または治療により寛解したが、呼吸停止の発作のため一一二日間の酸素療法を余儀なくされた一例は失明に至つたことを報告し、本症の発生頻度が一、五〇〇グラム以下の低体重児に高く、在胎週数の短いものほど高いことを指摘するとともに、従来核黄疸や脳水腫の症例に見られることの多かつた落陽現象が、活動期Ⅳ期以後の本症患児にも見られることを新たに発表した。

前認定のとおり、原告森は第二回目の入院期間中頻繁に落陽現象を呈していたのであり、また、弁論の全趣旨によれば、同原告は脳性麻痺には罹患していなかつたものと認められるから、右知見に従う限り、同原告は右入院時において本症活動期Ⅳ期以後の兆候を示していたものということができ、ムルヨノ医師が同原告の落陽現象を脳損傷の兆候としか見なかつたことは、結果的には誤診であつたといわなければならない。

しかしながら、右知見が昭和四三年九月に眼科の専門誌に新たに発表されたものであること、ムルヨノ医師が小児科医であり、同科においては落陽現象を脳性麻痺の兆候と見ることが一般的であつたことを考慮すると、ムルヨノ医師の誤診は、当時の小児科領域における臨床医学の水準的知識に照らしても無理のなかつたところと考えられ、これをもつてムルヨノ医師の過失として捉えることは妥当でない。

6  小児科関係における症例報告

右各論文にあらわれた知見に触発されて、その後小児科関係の雑誌にも、本症に関する本格的な症例報告がなされるようになつた。

昭和四三年一〇月発行の「日本小児科学会雑誌」七二巻一〇号には、大阪市立小児科保健センターの湖崎克、竹内徹らが、昭和四一年一〇月から昭和四二年一〇月までの間に同センター眼科および内科を受診したRLF三〇例について、酸素使用の有無および期間を各病院のカルテによつて検討した結果、(一)生下時体重一、五一〇グラムまでの低体重出生児が三〇例中一九例、在胎週数三二週までの早産児が同じく一七例を占めていること、(二)低体重で出生したものほど酸素投与期間が長期にわたり、最短五日間から最長九〇日間に及んでいたこと、(三)酸素投与が絶対の適応であつた場合で、濃度を四〇パーセント以下に保つた症例でも、長期間にわたり投与すると、RLFが発生してくること、などを報告した。

また、昭和四五年二月発行の「小児外科・内科」二巻二号には、関西医科大学の岩崎師子らが、同大学未熟児センターにおいて昭和四二年三月から昭和四三年八月までの一年半の間に検査をした一三〇例中に七例(5.4パーセント)の発症を見たことを報告し、注目すべきこととして、ほとんどの発症例において、酸素濃度が従来の通説による制限内の四〇パーセント以下であつたことを掲げている。

なお、同医師らは、右論文において、日常の未熟児保育に当り、実際に保育器内の酸素濃度を頻回に測定し、児の血液ガス分析を行い、週一回検眼を行つているにもかかわらず、昭和四二年三月から昭和四四年四月までの二年間に観察した未熟児一八〇例のうち一七例(9.44パーセント)に本症の発生を見ていることを報告し、軽症の本症の発生に酸素吸入が関与するとの実証は得がたく、本症発症の要因をただちに血中PO2に負わせるには無理があるようである、と述べ、また、治療に関しては、一七例中七例に、一応副腎皮質ホルモン、血管拡張剤の投与を試みたが、特に対照に比し有意の差があるとは思えなかつた、と報告しており、このことと前掲昭和四五年一二月発行の植村論文および後述する昭和四五年五月発行の永田論文の内容とを総合すれば、本症に対する薬物療法の有効性は、昭和四六年以降、少なくとも本症に関する先進的研究者の間においては、もはや支持されがたくなつていたものと考えられる。

7  わが国における酸素制限の厳格化

こうした臨床報告と平行して、外国例に学んで酸素濃度を四〇パーセント以下に保持すべきであり投与を中止するときは徐々に減圧すべきである、としていた従来の通説よりも、さらに厳しく酸素使用を制限すべきことを唱える見解が産科ないし小児科関係の雑誌に発表されるようになつた。

一例として、昭和四三年四月発行の「産科と婦人科」三五巻四号において、日赤病院の三谷茂らは、酸素は生下時体重一、五〇〇グラム以下の児または無呼吸、チアノーゼその他一般状態不良の児に対して与えるのを原則とし、その濃度は一応三〇ないし三五パーセント程度とし、必要に応じ四〇パーセントまで増加し、それでもなおチアノーゼ(手掌、足蹠の軽度のチアノーゼを除く。)が消失しないときは、これが消失するまで酸素濃度を漸増し、チアノーゼの消失を見たらできる限り速やかに酸素濃度を下げ、必要最小限度の供給にとどめる、と提唱し、イギリスの小児科メアリ・クロスの間歇的投与法(高濃度の酸素を一〇分間与えて中止し、チアノーゼが再発したら再び投与する、という過程を必要なだけ繰返す。)を紹介している。

しかし、その反面、酸素不足による脳傷害や出血を警戒すべきであるとして、酸素使用のより一層の制限に消極的な見解も根強く、小児科学会の多数説はむしろこの立場をとつていたと考えられる。

一例として、昭和四四年一二月に改訂第六版が発行された東京大学医学部小児科教室高津忠夫監修の「小児科治療指針」においては、チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対してもすべて酸素を供給すべきか否かについては議論がある、としつつも、出生後暫くの期間における未熟児の血液酸素飽和度は低値を示し、また肺の毛細管網の発達が不充分なために、酸素の摂取が不良であることが予想され、一度無酸素症に陥れば、無酸素性脳傷害や無酸素性出血を起す可能性があるので、ルーチンに酸素を投与することもあるが、この場合には濃度を三〇パーセント以下にとどめる、と述べ、RDSやチアノーゼの認められる場合にはさらに高濃度の酸素を使用する必要があり、原則として、器内酸素濃度を三〇ないし四〇パーセントに保ち、四〇パーセントを超えないようにするが、チアノーゼ発作の強い場合にはマスクにより一〇〇パーセントの酸素を短時与えることが有効なこともある、と述べている。

以上のことからすると、昭和四五年当時、チアノーゼや呼吸困難を示す児に対してのみ、かつその状態にある期間にのみ酸素を投与すべきである、という考え方が小児科学における水準的知識になつていたものとは認めがたく、後述するように、この考え方は、昭和四六年秋ころ、国立小児病院の奥山医師によつて強く主張されたことがあるけれども、現在に至るまで、小児科学会の通説にはなつていないものと考えられる。

8  永田医師による光凝固法の開発

他方、眼科の領域においても、植村医師の論文に触発されて、いくつかの研究発表が行われたが、その中で最も画期的なものは、天理病院眼科の永田医師による本症の治療法の開発であつた。

永田医師ら四名は、昭和四一年四月に同病院が開設されて以来、小児科未熟児室において、総数四六名の未熟児を扱い、生存例三六名中三一名について眼科的管理を行つてきたが、そのうち生下時体重一、四〇〇グラムおよび一、五〇〇グラムのIRDS児二名にやむをえず行つた酸素供給を中止した後、次第に悪化する本症活動期の病変を発見し、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起り、血管新生の成長が硝子体内へ進出し始めて増殖性網膜炎の初期像をとつてきた時点、すなわち自然寛解の望みがたいⅢ期の始まつたところで、それぞれ昭和四二年三月二四日(八一日目)および五月一一日(七七日目)に、網膜周辺部の血管新生の盛んな部分に対して全身麻酔下に光凝固を行い、頓座的に病勢の中断されることを経験し、これを同年秋の第二一回臨床眼科学会に発表し、今後の方針として、未熟眼底を呈する未熟児には定期的な眼底検査を行つて本症の進行を監視し、活動期Ⅱ期に入ればまずステロイド療法を施行し、また、もしⅢ期に移行してゆく症例があれば、その進行状況を確かめたうえで、網膜剥離を起す前に周辺部の病巣を新生血管とともに光凝固で破壊することを行うつもりである、と述べ、結語として、本症には自然寛解があり、光凝固施行の時期については問題があると思われるが、十分な眼底検査による経過観察により適当な時期を選んで行えば、あるいは重症の本症に対する有力な治療手段となる可能性がある、と述べた。

右発表に対しては、出席者の一人である植村医師が、(一)光凝固の実施時期および治療適応、(二)発育途上にある未熟な網膜に対する影響、(三)全身麻酔による影響、(四)活動期Ⅳ期、Ⅴ期における治療の可能性、の四点について質問を行つているにとどまり、他の出席者からの質問はなかつた。

右発表の内容は、昭和四三年四月発行の「臨床眼科」二二巻四号に掲載されたが、本症に対する光凝固法の施行は、本例が世界最初のものであつて、わが国の眼科医にとつても全く新しい知見であつた。

9  永田医師による本症研究の深化

その後、永田医師は、昭和四三年一〇月発行の「眼科」一〇巻一〇号において、天理病院における未熟児管理の実際を紹介し、(一)未熟児に酸素を用いる場合は各症例に応じて主治医が酸素使用量を指示し、担当看護婦が六時間ごとに二台の酸素濃度計で濃度を測定していること、(二)酸素使用量の増加はチアノーゼを規準とし、濃度は原則として四〇パーセントを限度としていること、(三)眼底検査は七ないし一〇日に一回行い、初回診察時に未熟眼底を示した例では酸素供給の有無にかかわらず定期的に眼底所見を追跡していること、(四)酸素使用例では生後六か月までは毎月一回眼底を外来で検査していること、などを述べているが、同論文によれば、昭和四一年八月から昭和四三年一月までの間の同論文で扱つた未熟児のうち本症活動期病変を示した八例についてみると、酸素使用日数および最高濃度は、生下時体重一、二七〇グラム、在胎月数七月で、IRDSに罹患し、無呼吸発作回数六五を示していた児に対し、六〇日および四六パーセントであり、同じく一、五〇〇グラム、七月、IRDS罹患、無呼吸発作一八回の児に対し、二五日および六二パーセントであつたことが認められ、同病院においては、むしろ酸素を必要とする児に対しては十分な酸素使用を行つていたものと考えられる。

また、永田医師は、右論文において、前述の光凝固治験二例を再度紹介し、光凝固実施の意義について述べるに当り、本症の病理学的変化を、未熟な網膜において成育途上にある血管が酸素濃度の異常な上昇によつて、閉塞し、これが正常な酸素環境にもどされることによつて血管末梢部に相対的な無酸素状態が起り、その結果低酸素状態に陥つた網膜と正常な部位との境界にある網膜血管より過剰な血管増殖が生じ、これが線維性組織の形成を伴い、後にこれが硝子体中に増殖し、出血、網膜剥離などを起すに至るものとして把え、光凝固によつて新生血管とともに異常な網膜を破壊すれば、この部に至る網膜血管は血管の増殖傾向に対する刺激から解放され、増殖性変化に伴う悪循環が断切られる可能性がある、とその意義を述べ、また、光凝固実施の時期に関しては、本症は自然治癒傾向が高く、自験例でも七五パーセントはⅠ期ないしⅡ期で自然寛解を起し、Ⅲ度以上の瘢痕を残すことなく治癒していること、キンゼイらがⅢ期でもその半数は正常にまで回復するとの報告を行つていること、植村らの報告によれば、Ⅱ期で副腎皮質ホルモン療法を行つても眼底周辺に何らかの瘢痕を残すことが指摘されていることを考慮し、光凝固を実施した二例においては、たとえ当該時点で自然寛解が起つたと仮定してもおそらくⅢ度の瘢痕を残すことが必至と考えられる程度の病変が認められ、かつ、これ以上本症が進行して網膜剥離が起つた場合光凝固はおそらく不可能になるであろうと想像されることから、Ⅲ期に突入した時期に実施を決意した、と述べ、さらに、光凝固自体の副作用については、発育途上の網膜に四分の一周とはいえかなり広範囲の人工的瘢痕を作ることが今後の眼球の発育に影響がないかどうかは、今後の経過観察に俟つほかはない、と留保しつつも、光凝固は施行の時期を充分に考慮して行えば、本症活動期の進行症例に有効な治療法となる可能性がある、と結んでいる。

以上のことからすると、本症に対する光凝固治療の有効性は、昭和四三年当時の眼科領域における臨床医学にとつては、全くの新仮説であつて、永田医師の優れた理論的根拠づけはあるものの、僅か二例の臨床治験例に支えられているにすぎない点において、殆ど経験科学的な検症を受けていない状態にあつたものというべきで、その適応、施行時期、予後、副作用等については、全て今後の追試による検証を俟つほかはない状態にあつたものということができる。

10  永田医師による追加的治療の発表と他の医療機関における光凝固法の実施

その後、永田医師は、昭和四四年秋の第二三回臨床眼科学会において、天理病院未熟児室で保育した二例および他院より紹介された二例の進行性本症症例に光凝固を行い、いずれもその病期で病勢の進行を停止せしめることができたことを発表するとともに、これらの症例における副腎皮質ホルモン療法その他の薬物療法の無力さと、光凝固による劇的な進行停止と治癒をまのあたりに見て、本症は適切な適応と実施時期をあやまたずに光凝固を加えることによりほとんど確実に治癒しうるものであり、重症の瘢痕形成による失明や高度の弱視を未然に防止することができる、との確信を持つに至つた、と述べた。

右発表の内容は、昭和四五年五月発行の「臨床眼科」二四巻五号に掲載されたが、これによれば、追加四症例のうち他院紹介患者一例については、生後八四日目の初診時に、左眼は既に活動期Ⅴ期の形で網膜全剥離をきたしていたが、右眼はⅣ期の所見を示していたので、適応時期を失していると考えつつも、即日全麻下に光凝固術を施し、副腎皮質ホルモンなどを投与して経過を観察したが、なお静脈うつ血が容易に消退せず、凝固斑の瘢痕化も遅かつたため、一二日後に再度光凝固を追加したところ、約二か月後には、瘢痕期Ⅱ度ないしⅢ度の所見を呈しており、一応視力も保たれているようである、というものであり、他の三例は、いずれも活動期Ⅲ期に入つた時点で全麻下に両眼の光凝固を施行し、数日後には凝固斑の瘢痕化が始まり、約二週間後にはほぼ瘢痕化が完成し、静脈うつ血も消退し、施術後一ないし三か月後の所見によれば、網膜に特別の異常は認められなかつた、というものであるが、うち一例は、Ⅰ期から副腎皮質ホルモン、ビタミンPの内服およびビタミンEの注射を受けていたにもかかわらず、進行を阻止しえなかつた、とされている。

なお、永田医師の右論文によれば、昭和四三年一月から昭和四四年五月末日までに天理病院未熟児室で扱つた未熟児生存例五三例中八例(一五パーセント)に本症活動期の病変が発見されたが、その酸素使用日数は、IRDSに罹患していた一例に二六日間使用した以外は、いずれも八日以下であつたことが認められ、特に光凝固を必要とした一例は、生下時体重一、三九二グラム、在胎週数三二週で、天理病院において、僅か二日間、最高濃度二八パーセントの酸素投与を受けたのみであるのに、活動期Ⅲ期に至る本症を発生していることが認められ、このことからすると、本症の発生に酸素療法がどの程度の原因力を与えているかは、かなり問題のある点と考えられる。

その後、永田医師は、昭和四五年一一月発行の同誌二四巻一一号において、昭和四一年八月から昭和四五年六月末までに同病院未熟児室に収容された未熟児生存例一五八例中二四例(一五パーセント)に本症活動期病変を発見し、うち五例において進行が止まらなかつたので光凝固を加えたことを報告するとともに、酸素を全く使用しなかつた三九例においてもⅠ期の活動期病変が二例に発見されたこと、酸素使用日数五日間の七七例においても九例の発症例が見られ、うち一例はⅢ期にまで達し、光凝固を必要とするに至つたことを指摘し、また、右期間中に他院からの紹介患者七例にも光凝固を施したことを明らかにし、自院管理にかかる五例と合わせ、一二例の光凝固治療例を報告し、その結果からⅢ期の始まりを光凝固の適期と考えていることを明らかにし、結論として、光凝固は現在本症の最も確実な治療法ということができる。と述べ、本療法を行つた第一例は既に三歳になつているが、ほぼ正常の視力を保つているようである、と付言している。

しかしながら、昭和四五年末までの時点においては、光凝固の実施結果を報告した文献は、前述の永田論文四編がいずれも眼科の専門誌である「眼科」または「臨床眼科」に発表されていたのみであつて、他の医療機関における追試報告は一編も発表されていなかつたのであるから、永田医師が、昭和四五年一一月の時点において、「光凝固は現在本症の最も確実な治療法ということができる。」と述べたことは、あくまで自己の関与した一二例の治療経験にもとづく自己の確信を表明したものにほかならず、これが眼科領域における臨床医学の水準的知識にまで到達していたものとは考えられず、もとより小児科、産科の領域においてそうであつたとは到底考えられない。

もつとも、昭和四四年から昭和四五年末までの間には、文献的発表こそなかつたものの、昭和四二年ないし昭和四四年にかけての永田医師の学会発表に触発されて、臨床実験ないし追試として、本症進行例に光凝固を施し、かなりの成功を収めていた医療機関もあつたことは事実であり、本件証拠上明らかなものは、次のとおりである。

(一) 名鉄病院においては、昭和四四年三月および四月に各一例、一一月に二例、昭和四五年六月に二例、七月に三例、八月および一〇月に各一例、一一月に六例、一二月に一例の計一八例に実施されたが、うち一例はⅡ度、他の一例はⅣ度およびⅤ度の瘢痕を残し、その他はほぼ正常に復した。

(二) 九州大学眼科においては、昭和四五年一年間に二三例に対して実施されたが、うち二一名に著効を見、一名は不良、残り一名は片眼著効、他眼不良であつた。

(三) 関西医科大学においては、昭和四五年六月に三例、九月および一一月に各一例に対して実施されたが、うち自院管理および他院紹介の各一例がⅠ度の瘢痕で治癒し、他院紹介の二例はⅤ度の瘢痕で失明、自院管理の一例は片眼がⅡ度、他眼がⅣ度の瘢痕を残した。

(四) 松戸市民病院の丹羽医師は、関東労災病院の深道医師の協力を得て、五人九眼の光凝固を行つたことを昭和四五年秋の臨床眼科学会で発言している。

(五) 東北大学眼科の斎藤医師は、アモイルス冷凍手術装置により、経結膜的に冷凍凝固を行い、本症の進行を予防しえたこと、また、東独ツアイス社の光凝固機を用いて光凝固を行つたことを右学会で発言しているが、例数および実施時期は不明である。

(六) 兵庫県立こども病院においては、昭和四五年五月五日から昭和四六年八月三一日までに未熟児室に収容された未熟児のうち一〇例に実施されたが、個々の症例に対する実施時期は不明である。

(七) 県立広島病院においては、昭和四五年一月から昭和四六年八月中旬までに収容した未熟児八三例のうち一二例に実施され、大部分はⅡ度の瘢痕を残して治癒したが、個々の症例に対する実施時期は不明である。

(八) 愛媛県立中央病院においては、昭和四五年五月から昭和四六年九月までに収容した未熟児のうち二例を徳島大学に紹介して光凝固を受けさせ、いずれも瘢痕期Ⅰ度で治癒したが、個々の症例に対する施術時期は不明である。

(九) 国立大村病院においては、昭和四五年七月一日から昭和四六年七月三〇日までに未熟児センターで取扱つた未熟児のうち一〇例(うち六例は昭和四六年生まれ)について、五例に対して光凝固、六例に対して冷凍凝固を行い(一例は、両凝固法を受けている。)、本症の進行を停止させたが、個々の症例に対する施行時期は明らかでない。

以上のほかにも、いくつかの医療機関において、昭和四五年末までにいくつかの光凝固実施例のあつたことが窺われるけれども、永田医師以外の医師の治療経験が文献的発表を見たのはいずれも昭和四六年以降のことであり、しかもその大部分は眼科の専門誌においてであつた。

従つて、昭和四五年一二月発行の「日本新生児学会雑誌」六巻四号において、植村医師が、「著者が、本年三月、ウイルマー研究所を訪れた際、パツツ光凝固をやはり施行しており、現在最も有望な方法だと述べていた。わが国でも、最近各地で光凝固法による治験例が出されており、この方法によつて、本症は、早期に発見すれば、失明または弱視にならずにすむことがほぼ確実となつた。」と述べていることは、本症の研究に先駆的役割を果した植村医師が、永田論文を熟読するとともに、学会発表を聴取したり、座談会に出席したり、海外の実情を視察するなどの個人的経験を積むことによつて得た光凝固法に対する多分に個人的な評価を発表したものにほかならない、と解するのが妥当であり、右評価をもつて当該時点における眼科学界の本法に対する一般的な評価を代表するものと考えることは妥当でなく、むしろ、右植村論文の意義は、光凝固法が本症の治療にとつてきわめて有望な手段であることを初めて小児科関係の専門誌に発表し、未熟児の保育管理に携わる小児科医や産科医との緊密な連繁の必要性を改めて強調した点にあるというべきである。

<証拠>によれば、ムルヨノ医師も、榊原医師も、その担当にかかる各原告らに対する医療行為の当時、本症に対する治療法としての光凝固法の存在を知らなかつたものと認められるが、右各<証拠>により認められるように、右両医師は、基本的には、静岡市および清水市という地方中都市における一般総合病院に勤務する小児科医であつて、大学等の研究機関に附設された病院や国立小児病院、兵庫県立こども病院等の国公立の専門病院に勤務する医師ではなく、また、特に本症について高い関心をもつて文献等を渉猟していた専門的研究者でもなかつたのであり、前掲植村論文の発表より前においては、僅かに、昭和四三年一一月発行の「産婦人科の実際」一七巻一一号において、植村医師が「永田らにより光凝固法という新しい治療法も登場し、」と一行紹介し、また、昭和四四年一二月発行の「図説小児科学」において、大阪大学の蒲生逸夫が本症の治療法として「手術」とのみ記載していたのが小児科、産科領域における本法に関する文献的発表として目につく程度であつたことからすれば、ムルヨノ、榊原両医師が昭和四五年末期ないし昭和四六年初期の時点において本法の存在を容易に知りえたか否かについては、多分に疑問が存し、少くとも、本法が本症の治療にとつて有望な手段であることを知ることはきわめて困難であつたものと考えられる。

11  昭和四六年における治験例の文献的発表

昭和四六年に入ると、光凝固法による治験例が、天理病院以外の医療機関に勤務する医師によつても、徐々に文献的発表を見るようになつた。

(一) 同年三月には、天理病院眼科の永田医師らと同眼科の小林医師らが、「小児科臨床」二四巻三号において、昭和四一年八月から昭和四五年八月までの収容未熟児生存例一六五に対し、二五例(15.2パーセント)に本症を見たこと、在胎三二週未満、体重一、六〇〇グラム以下の児に一四日以上酸素を投与した場合には、全例にⅡ期以下の本症が発症したこと、院内でⅢ期に進んだ五例と、他院で本症の診断を受けて移送されてきた一〇例に、光凝固を施行したところ、既に時期を失していた他院紹介の二例を除き、全例において本症の進行を阻止し、治癒せしめえたことを報告した。

(二) 昭和四六年四月には、関西医科大学眼科の塚原医師らが、「臨床眼科」二五巻四号において、10の三に前述した五症例の治験を発表したが、右論文によれば、同病院未熟児センターにおいては、最近三年三か月間に二六二例の眼底検査を行い、そのうち二四例(9.2パーセント)に本症の発生を認めたが、そのほとんどは活動期Ⅱ期から自然治癒に向い、光凝固採用前にⅢ期まで進んだものは一例のみであつて、右二四例中光凝固の適応と考えられたものは二例(8.3パーセント)のみであつた、として本症の自然治癒傾向の高いことが指摘され、また、光凝固の実施時期については、Ⅲ期に入ると重症な瘢痕を残す可能性が大きいので、Ⅲ期に入れば速やかに光凝固を行うよう心がけることとした、とされているが、同時に、体重八〇〇グラムという極端な夫熟児では、眼底周辺検査が困難であり、検査が可能となつたときには既に重症な本症が発生しており、光凝固が十分に効果を現わさないこともあること、また、眼底周辺に広範な光凝固を施した症例の実際の視機能に関しては今後の研究に残されていることも指摘されており、光凝固の予後および副作用はなお未知数の状態にあつたものと考えられる。

右論文は、昭和四五年秋の第二四回臨床眼科学会における講演の内容を文書化したものであるが、これによれば、右講演に際しては、永田医師ほか数名の医師により質疑応答がなされており、本症に関する眼科領域の研究者の間において、光凝固法が高い関心を呼んでいたことが窺われる。

(三) 昭和四六年八月には、関西電力病院の盛直之が、「臨床眼科」二五巻八号において、同年五月に大阪で開かれた「第二回光凝固研究会」の模様を報告したが、右論文においては、当時わが国における光凝固装置は約六〇台に達しており、網膜剥離のほか、前眼部応用から、広く網膜脈絡膜疾患、血管性病変(本症など)、さらに眼内悪性腫瘍の治療へと適応範囲が非常に拡大し、眼科領域では不可欠の治療器機になつてきていることが述べられるとともに、演者の一人である広島県立病院の野間医師が、本症に罹患した一〇例一九眼に対し、うち九例はⅢ期の中期に、一例はⅣ期に光凝固を施したところ、瘢痕期Ⅰ度が一眼、同Ⅱ度が一六眼、同Ⅲ度およびⅣ度が各一眼であつた、と発表しているが、右発表に対しては、分類の判定にずれがあるのではないか、との田辺医師の質問や、鼻側の無血管帯にも散発的に凝固を加える方がよい、との鶴岡医師の意見や、明らかに進行する重症例には早目に実施することが牽引乳頭発生の予防に重要であろう、との永田医師の意見などが出されており、出席者の本症に対する関心の高いことが示されているが、同時に、本症の臨床経過の判定や光凝固の施行部位、実施時期などに関して出席者の間に必ずしも見解の一致を見なかつたことも示されている。

(四) 同年九月には、九州大学眼科の大島健司らが、「日本眼科紀要」二二巻九号において、10の(二)に前述した治験例を報告しているが、本症の発生頻度については、昭和四五年一年間に同大学附属病院と国立福岡中央病院の未熟児室に入院した一五七名の未熟児のうち五九名(37.6パーセント)に見られた、とし、その原因として、七組の双胎があり、それらがいずれも発症したことなどを挙げ、また、自然治癒率については、五九名中四四名(74.6パーセント)がⅡ期以上に進行しなかつた、と述べている。

右論文によれば、一般的傾向として、在胎期間が短かく、生下時体重が少いほど重症の本症が多いが、一、五〇〇ないし一、八〇〇グラムの体重でも重症例が多く、また満期出生児にも九例の発症が見られた、とされ、酸素濃度はほとんど全部が四〇パーセント以下に抑えられていたため、使用期間の長い方に高度の瘢痕例が多い、としつつも、全く酸素補給を受けていない児にも一二例の発症が見られ、その半数が高度の症例であつた、と述べ、本症の発生因子が酸素のみではなく、児側に明らかな発症因子のあつたことを示唆している。

また、酸素投与による本症の発症機序については、アシユトンの動物実験の結果から、十分に発育していない網膜血管が動脈血PO2の上昇により強く収縮し、不可逆性の血管閉塞をきたしたところで、環境酸素濃度が低下してPO2が正常化すると、閉塞管流域の組織が極度の酸素欠乏に陥り、これが異常刺激となつて網膜静脈のうつ血と血管新生をもたらし、この新生血管から血漿分が漏出滲出して、後に増殖性変化を起し、ついには瘢痕収縮により網膜を破壊するに至る、と推定し、酸素投与によらない本症の発症機序については、パツツの説として、児側の因子、すなわち、網膜の血管が十分に発達しないうちに出生することにより、肺呼吸開始とともにPO2が上昇し、胎内におけるよりも高くなつたところで、外界の光刺激によつて網膜の代謝が亢進し、血管の収縮から閉塞に至り、組織の相対的酸素欠乏のため本症が発生する、と述べている。

さらに、光凝固の実施時期については、Ⅲ期の初期に施行して本症がよく治癒することは確実であるが、今後検討の結果によつてはやや早期に行う必要があるかも知れない、とし、本症のⅡ度の瘢痕例が学童期になつて網膜裂孔を生じ、剥離に至つた一例を経験していることから、瘢痕期治癒例の追跡調査の必要を感じている、と述べている。

(五) 昭和四六年一一月には、名鉄病院眼科の田辺吉彦が、「現代医学」一九巻二号において、一九五二年から翌年にかけてアシユトンとパツツがほぼ人間の六ないし七か月胎児の網膜に相当する状態にある仔猫の網膜を八〇パーセントの高濃度酸素中に入れて人工的に網膜血管を閉塞させ、約六時間後に全網膜の循環を停止させ、大気中に戻しても閉塞した血管が完全には復元せず、再開した一部の血管が怒張する状態を作り出す実験に成功したことを紹介し、本症活動期における血管新生は、無酸素状態に陥つた網膜組織から何か血管形成物質が産生されるためであろう、と述べ、未熟児の場合には、血管新生が進展すると、これに先行した間葉細胞が新生血管と線維組織を形成し、その牽引のために周辺の網膜剥離が起ると考えられる、とその発症機序を述べたほか、本症の病理所見について、アシユトンによる増殖期の三分類を紹介し、オーエンスの分類との対応関係を明らかにした。

右論文において、田辺医師は、本症が特に一、五〇〇グラム以下、三二週以前の早産児に多いこと、多くは生後一か月以内に発症し、六か月で瘢痕期に入ること、大部分は痕跡を残さず、自然寛解するが、一部は進行してRLFに至ること、本疾患の初期は眼底検査によるほかは発見できず、眼底所見の程度判定にはオーエンスの分類が一般に用いられること、など当時の眼科学界の通説を紹介したほか、パツツが臨床経験的に、酸素が過剰供給されると、網膜血管が収縮し、長期にわたるとこれを中止しても血管が復元せず、重篤な本症を発生したことから、この血管収縮期を予備期(Prelimi-nary stage)と呼び、酸素量の適否のメルクマールになるとしていることを紹介したが、少くとも一日一回は眼底検査をしなければならないことや、酸素使用期間中は硝子体混濁のため、乳頭周囲の血管径がはつきりしないことが多いことを指摘し、眼底所見を酸素使用のモニターとすることに対し消極的な態度を示した。

そして、同医師は、本症の治療法としてのステロイドホルモンおよびACTH投与については、副作用のみで、ビタミンEやビタミンAと同様無効という報告が多く、自然寛解の多い本療患においては効果判定が難しい、と述べ、光凝固法および冷凍凝固法を確実な治療法として評価し、これが出た以上、もはやステロイドは使用すべきでない、としている。

本論文は、光凝固法を確実な治療法として評価した点において、昭和四五年一二月発行の植村論文と共通であるが、注目すべき点は、右植村論文における評価と異なり、10の(一)に前述した一八例および昭和四六年中に光凝固を施行した七例の自験例にもとづいた評価であることであり(右二五例のうち無効例は僅か二例であり、活動期Ⅲ期以下の二一例には全例著効を奏した。)、このことは、当時、光凝固法の有効性が天理病院以外の医療機関においても確認されつつあつたことを示すものということができる。

しかしながら、同医師は、当時は光凝固法が始まつてから僅か四年であり、未熟な眼への侵襲が生長につれてどのような影響を及ぼすかについてデータがないことを指摘し、永田医師による有初の実施例が目下四歳で0.9の視力を有し、格別の異常を認めないといわれていることを述べ、今後とも経過追跡が大切である、と結んでいる。

以上が、昭和四六年中の光凝固法による治療例の文献的発表の概観であるが、これらを見る限り、本法は、昭和四六年末の時点においてもなお追試の段階にあるものということができ、本法の有効性は、徐々に臨床医学の知識体系の中に定着しつつあつたものといつてよいが、その副作用についてはなおほとんど未知数の状態にあり、追跡調査の必要性がきわめて大きかつたものということができる。

なお、右各文献的発表のうち、(一)が小児科関係の専門誌に発表され、(五)が全診療科共通の(しかしかなり学問的レベルの高い)医学雑誌に発表されたことは注目すべきであり、直接の治験例の発表ではないが、国立小児科病院の奥山医師が、昭和四六年一〇月発行の「季刊小児医学」四巻四号および同年一一月発行の「日本小児科学会雑誌」七五巻において、光凝固法が現在唯一の有効な治療法であることが各施設で確認されていること、施行には適期があり、これを逸すると、光凝固の効果は期待できないことを述べたほか、本症の早期発見および光凝固の適応とその時期の決定のために、未熟児の管理に眼科医の関与が望まれること、光凝固装置が高価であり、すべての未熟児施設に備えることが困難であることから、各地区ごとに本装置を備えた病院を中心に本症の治療組織が形成されることが望まれることを述べ、さらに、RLFの予防の観点から、酸素療法の原則として、(一)未熟児に対してルーチンに酸素を与えることは避けるべきで、呼吸障害やチアノーゼがある場合にのみ酸素を使用し、かつ必要最低限の量とすべきであること、(二)酸素療法中は、ときどき保育器内の酸素濃度を減少してみて、チアノーゼの出現の有無を観察し、チアノーゼが現われなければ、速やかに酸素を減量ないし中止すべきであることなどを掲げていることも注目されてよい。

12  昭和四七年における治験例の文献的発表と眼科医の認識

昭和四七年に入ると、光凝固法による治験例のほか、冷凍凝固法による治験例が本格的な文献的発表を見るようになつたが、他方、これらの方法の副作用を懸念する文献も現われるようになつた。

(一) 同年一月には、国立大村病院眼科の本多繁昭は、「眼科臨床報」六六巻一号において、10の(九)に前述した一〇例の治療経験を発表し、定期的眼底検査を受けた一二〇例のうち、三〇例(二六パーセント)が将来本症になる危険がある眼底所見を呈したが、そのうち二〇例は自然治癒したことを報告し、凝固の時期としては、活動期のⅡ期からⅢ期への移行時期(新生血管の硝子体への進入以前)が最適である、としている。

なお、凝固を必要とした一〇例の中には、生下時体重一、四二〇グラム、在胎三一週。酸素投与日数三日、平均血中PO2五五ミリ、最高血中PO2六五ミリ、という一例や、同じく、それぞれ、一、六〇〇グラム、三三週、四日、五八ミリ、六三ミリ、という一例が含まれており、このような症例においては、酸素の投与、特に過剰投与、が本症発生の原因であるのか否か、多分に疑問が感ぜられる。

また、本症の臨床経過について、ほとんどの例はオーエンスの分類の経過をとるが、時として異常に速やかに進行する例があることを指摘し、凝固例の今後の経過観察が大切である、としている。

(二) 昭和四七年三月には、三たび永田医師らが、「臨床眼科」二六巻三号において、本症の光凝固による治療を発表した。

右論文には、昭和四六年秋の第二五回臨床眼科学会における発表を文書化したものであるが、右論文によれば、永田医師らは、昭和四一年八月から昭和四六年七月までの間に出生し、天理病院未熟児室に収容保育された未熟児生存例二一一例のうち、14.69パーセントに本症活動期病変を発見し、うち5.21パーセントはⅡ期まで進行して自然治癒し、2.84パーセント(六例)はⅢ期に入つて光凝固を施行したほか、右期間中に他院より紹介された一九例に対して光凝固を施行し、これら二五例についてⅡ期からⅢ期への移行日齢と光凝固実施日齢および各症例の最終的な眼底所見にもとづく治療予後を調査した結果を示した。

右調査結果によれば、Ⅱ期からⅢ期への移行日齢は、二六日ないし一一一日で、かなりの分散が見られたが、自院において定期的眼底検査により管理されていた六例に対しては、いずれも右移行の直後ないし三週間後に光凝固が実施され、全例Ⅲ度以上の重症瘢痕を残すことなく治癒したが、他院紹介にかかる一九例のうち二例は、来院の際既に適期を過ぎていたため、Ⅲ度以上の瘢痕を残し、うち一例は、両眼とも完全失明となつた。

また、同医師らは、倒像眼底写真撮影法を開発し、本症の眼底周辺部所見の継時的記録を行い、活動期病変各期の眼底所見を精密にとらえることに成効したことから、光凝固実施時期の適否を述べるに当り、本症活動期病変の進行経過が必ずしも一様でなく、当初から無血管帯のきわめて幅広い例では、無血管帯の浮腫の網膜血管の充血蛇行のみ強く、Ⅱ期の所見が明瞭でないうちに、ある時期を過ぎると突然血管からの強い滲出と網膜剥離が急速に進行してゆく場合があるように思われる、と指摘し、光凝固の治療経験を積むに従つて、生下時体重、酸素使用日数、眼底所見などを総合すれば、本症進行の予後をある程度予測しうるようになるので、最近は、Ⅱ期の初めから観察可能な症例で、右の総合判定が明らかにⅢ期への移行を予測させる症例においては、Ⅱ期の終りころ、すなわち従来よりやや早目に実施する方針をとるようになつた、と述べ、Ⅲ期に入つて網膜剥離が既に始まつている症例で光凝固を行つた場合には、病勢の進行を一応停止させても、うつ血の消退や増殖性変化の完全瘢痕化に長期間を要することがあり、このような場合には、乳頭上下端の血管の耳側への牽引や黄斑部の耳側偏位を起し、視力の予後も不良と予測されるので、早期からの継続的経過観察と適確な判断を下すための知識と経験の蓄積を前提として、最も理想的な施行時期は、Ⅱ期の終りということができる、としている。

さらに、同医師らは、Ⅲ期の初めに光凝固を受け、本症の完全治癒を見た後、化膿性髄膜炎を併発して死亡した児の眼球を剖検した結果、光凝固による網膜血管終末端における異常組織の破壊後、異常な新生血管は消失し、より正常な性状をもつた網膜血管が再び鋸歯状態に向つて発育を再開することは明らかである、としているが、その血管終末は発育終了までなお本症の可能性を保持するものとし、一例として、生後三六月目に光凝固を受け、一旦本症の進行停止を見た症例において、生後四六日目に本症を再発し、再度の光凝固を必要とした症例を掲げこのような毛細血管の発育障害を除くために、光凝固に際し、従来のように無血管帯との境界線のみにとどまらず、無血管を散発的に凝固することを試みている、と述べている。

右論文の注目すべき点は、光凝固法の開発者である永田医師自身が、その後も本法の改良に努めていることと、本法の実施時期や施行部位についての見解を自から修正していることであろうが、同医師が最後に、「今や本症発生の実態はほぼ明らかとなり、これに対する治療法も理論的には完成したということができる。」と述べている点は、右学界発表に際しての山下、田渕、大島、佐々木、田辺各医師の質疑内容やその後発表された右各医師らの論文の内容に照らし、これを文字通り受取ることに躊躇を感ぜざるをえない。

(三) 昭和四七年三月には、東北大学眼科の山下由紀子医師が、「臨床眼科」二六巻三号において、同大学周産母子部未熟児室で生後数日から眼科的管理を行つている未熟児および直接眼科外来を訪れる本症患者のうち、活動期Ⅲ期に至り、自然治癒の可能性が望めなくなつた八例に対し、キーラー社製のアモイルス冷凍装置を用いて、局所または全身麻酔下に、倒像鏡で部位を確認しながら経結膜的に冷凍凝固を行い、施行後二か月以上経過を観察した結果を発表した。

右論文によれば、対象児の生下時体重は一、三〇〇グラムから一、九五〇グラムに、在胎期間は二八週から三六週に、酸素使用日数はほぼ一八日から五七日に分布しているが、一例のみは、生下時体重一、八六〇グラム、在胎三一週で、酸素使用が出生時の一日のみであるにもかかわらず、生後六二日目の初診時に、既に活動期Ⅲ期の病変が認められたことが注目される。

施行結果は、六例が瘢痕期Ⅰ度、二例が瘢痕期Ⅱ度で治癒しているが、同医師は、本症の自然治癒傾向の強いことを強調し、Ⅲ期に入つても頻繁に眼底の観察を行いながら自然治癒を期待し、その進行停止が望めないと判断したときはじめて施術することにしている、と述べて、他の医師よりも遅い時期を施行の適期としている。

また、施行範囲についても、成長期にある患児が広範囲の網脈絡膜癒着による牽引で、将来網膜剥離などを起すおそれがないという保証のない現在、手術巣は最小限にとどむべきであろう、として、永田医師らよりも狭い範囲を凝固すべきことを提唱している。

さらに、治癒機構については、光凝固によつて新生血管ともに異常な網膜を破壊すれば、この部に至る網膜血管が増殖傾向に対する刺激から解放されて、増殖性変化に伴う悪循環から断切られる可能性がある、という永田医師の考えを一応承認しつつも、冷凍凝固の場合は、かなり間隔をおいた非連続的な凝固でも治癒することから、右の考えのみでは説明困難であり、現在実験中であるが、むしろ、施術による網膜の代謝の変換が考えられる、としている。

なお、同医師は、冷凍手術が光凝固術ほど高価な装置を要せず、術式もより容易であり、かつ網膜浮腫のかなり強いⅢ期の進行症例にも適用可能であることを指摘し、両者ともほぼ同様の効果を得られるとすれば、冷凍手術の方が、実施医家にとつても施行しやすい方法かと思われる、と述べている。

(四) 同年五月、名鉄病院の田辺医師らは、「日本眼科学会雑誌」七六巻五号において、昭和四四年三月から昭和四六年七月までの間に、東独ツアイス社製の光凝固器を用いて二三例の本症を治療し、良好な成績を得たので、追試の意味で発表する、とした。

右論文によれば、対象は、自院発症三例、他からの転医二〇例で、実施時期は、Ⅲ期に入つた時点を原則として、症例によつてはⅡ期のものにも行い、凝固部位は浮腫を起している網膜のできるだけ周辺の部分で、程度は一ないし二例ばらばらに凝固するくらいで、新生血管は特に凝固する必要はない、というものであるが、結果は、Ⅲ期までの二〇例全例に著効を見、Ⅳ期の一例はⅡ度の瘢痕を残し、他はⅣ度ないしⅤ度の瘢痕となつて無効であつた、としている。

そして、同医師は、光凝固の作用機転について、11の(五)に前述した本症の発生機序についての考え方を前提として、光凝固は、無酸素状態に陥つた網膜を壊死させ、血管形成物質の産生を停止させ、また瘢痕化した網膜が酸素消費を殆ど必要としないことからも、無酸素状態を改善させる、と説明し、そのほかに、網膜浮腫の除去が浮腫によつて圧迫されていた網膜血管の血流を改善させることを重要な因子として指摘し右作用機転と前述の治療成績から、本症は活動期Ⅲ期の初期までに光凝固を行えば、ほぼ確実に治癒させることができる、と述べ、合併症としては、結膜出血があるが、いずれも吸収されるので問題はない、とした。

なお、同医師は、酸素不使用例に生ずる本症の原因として未熟児貧血を挙げ、これにより網膜の酸素供給が減少したところで、出生後呼吸により急激にPO2が上昇して網膜血管が閉塞し、周辺の無血管の網膜が成長して、酸素不足をきたすものと考えられる、とし、11の(四)に前述したパツツの説とはかなり異なる説明を与えている。

(五) 昭和四七年六月には、九州大学眼科の大島健司が、「眼科」一四巻六号に、「未熟児網膜症の臨床上の問題点」と題する論文を発表し、満期成熟児における本症の発生因子が未解明であること、パツツの提唱した眼底所見により酸素濃度を適正に保つよう調整する方法は、毎日眼底検査を行うことを必要とし、これによる光刺激が網膜に及ぼす悪影響を考慮する必要のあることを指摘するとともに、生命の危険を脱し、酸素供給が停止されることから活動期病変が始まるので、眼科医は、生後三ないし四週から三か月ころまで、本症の経過を追い、失明防止に全力を尽さなければならない、として、オーエンス、リースらの分類を詳細に紹介しているが、オーエンスらの記述にないⅡ期の特徴的変化として、無血管帯と網膜血管末梢部との境界に灰白色の境界線が出現することを挙げ(もつとも、このことは、昭和四五年一一月発行の永田論文において既に指摘されている。)、これが次第に濃くなつて提防状に隆起してくることを進行の兆候と捉え、またオーエンスらの記述によるⅢ期の特徴としての網膜剥離は、当時の直像鏡による観察のため、境界線の赤道部への進出像が見誤られた可能性が大きい、として、むしろこの状態をⅢ期の所見と解すべきであるとし、オーエンスらの分類が修正を要することを示唆している。

また、眼底検査には倒像検眼鏡(ボンノスコープ、京大式倒像鏡、双眼倒像鏡など)が必要であること、単に本症の発症を監視し、経過を観察して失明を防止するだけの目的であれば、生後三ないし四週から検査を開始し、その後週一回くらいで十分であるが、Ⅱ期からさらに進行する傾向が認められれば、週二回の検査が必要であること、などを述べ、治療については、現在までの薬物療法には進行停止を期待しがたく、光凝固法は最も有力で、適時に施行されれば、後極部網膜に影響を及ぼすことなく、本症を確実に治癒に赴かせることができる、と述べて、植村、田辺両医師に続いて、本法を確実な治療法として評価している。

さらに、光凝固の実施時期については、活動期の初期がよく、凝固部位は、原則として境界増殖線を中心に血管増殖部とその周辺の無血管帯で、それらを二ないし三例に凝固する、としているが、本法に頼り過ぎて、本症の予防を軽視したり、適期を逸することを懸念して、自然治癒の可能性のあるものにまで実施することのないよう警告している。

最後に、未熟児の眼底検査を定期的に行い、近くの光凝固機を備えた病院と連絡を保つような態勢は、既に作られているところもあるが、一般にはまだまだ少く、全国的に普及させる必要がある、としている点は、当時の未熟児の眼科的管理の実情をほぼ正確に表わしているものといえよう。

(六) 昭和四七年七月には、兵庫県立こども病院の田淵昭雄らが「臨床眼科」二六巻七号において、10の(六)に前述した光凝固の治療結果を報告しているが、右論文は、前年秋の第二五回臨床眼科学会における発表を文書化したものである。

右発表によれば、昭和四五年五月五日から昭和四六年八月三一日までに同病院未熟児室に収容された未熟児総数は一〇八名で、えのうち収容後七日以内に死亡した者は一二名であるとされているが、収容後七日を基準時として、生下体重一、〇〇〇グラム以下の二例がいずれも生存し(もつとも、うち一例は、生後一二四日目に死亡した。)、一、〇〇一ないし一、五〇〇グラムの一八例中一五例が生存していることは、近年の極小未熟児の生育率の向上をよく物語つている。

しかし、その反面、継続的に眼科的管理を行いえた九五名のうち二九名(30.5パーセント)に本症の発生を見、特に生下時体重一、八〇〇グラム以下の児においては、活動期Ⅰ期以上が71.4パーセント、Ⅱ期以上が45.7パーセントに見られたことも指摘されており、低体重児の生育率が向上するのと比例して本症の発生率が高くなつていることが注目される。

発症時期については、初診時に既に活動期Ⅰ期を呈していた症例や、中間透光体の濁り(ヘイジイ・メデイア)が消失したとき既にⅡ期を呈していた症例があり、Ⅰ期以上の変化を呈した時期は出生後三ないし三九日(平均23.4日)で、Ⅱ期の変化を呈した時期は同じく二二ないし一〇七日(平均37.2日)であり、Ⅰ期からⅡ期への進行に要する日数は六ないし四四日(平均14.8日)であつた、とされている。

光凝固は、Ⅱ期以上に進行した一六例中一〇例に施行されたが、うち二例は一回の施術で進行を阻止しえず、再手術を必要とし、そのうち一例は、生下時体重一、七五〇グラム、在胎期間三六週で、生後三日目に発症を認め、きわめて早く進行した、とされている。

また、Ⅲ期以上を示した四例のうち二例は他院紹介患者で、両例とも初診時にⅣ期以上を示していたが、光凝固を施したところ、一例が比較的健常な網膜を残して瘢痕化しつつあるものの、他の一例は進行を阻止しえなかつた、とされ、自院保育の二例のうち一例は、Ⅱ期を呈した時点でステロイド投与を行つたが、急速にⅢ期に進行したため、網膜周辺部全周にわたり光凝固を施したが、術後五日目に消化管出血のため死亡し、他の一例は、Ⅱ期の時点で光凝固を行つたが、一か月後にⅢ期への進行が認められたため、再度施術した、とされている。他の六例は、いずれもⅡ期への進行が予想された時点で施術され、周辺網膜の浮腫、血管の拡張は消失し、新出血管は次第に消滅している、という。

同医師は、右術後死亡例の眼球を剖検し、病理組織学的に検索しているが、これによれば、光凝固を行つた部分は色素上皮層が破壊され、色素が内層に飛びちつている所見を認め、全体として内顆粒層の配列の乱れは少いが、外顆粒層の乱れは著しく、内顆粒層や内網状層にまで障害を受け、その部の細胞数の減少およびピクノーシスをきたしているところもあり、網膜全体が菲薄化し、破壊されたところもあり、脈絡膜は肥厚し、著明な出血が見られた、とされている。

また、同医師は、本症が生下時体重一、六〇〇グラム以下、在胎週数三二週以内の未熟児に発生することから、特にこの範囲に入るものは、酸素投与に関係なく注意を要する、とし、同病院においては、収容未熟児はできる限り収容後一週間以内に眼科的検査を行い、その時点での所見に応じて、次回の診察日を決定しているが、はじめのうちは二週間以上間隔をあけないようにしている、と述べつつも、刺激が網膜の組織代謝を促進させ、網膜の低酸素をきたすことから、眼底検査など不要な光が本症の誘因となりうる、として、眼底検査を必要最少限度にすることも大切である、と述べている。

そして、光凝固については、一〇例の施行例中八例において本症の進行を阻止しえたことから、その効果を疑う余地はない、としつつも、発症時からきわめて急速に進行する症例やⅣ期以上の症例には効果が乏しく、一の凝固のみでは進行を阻止しえない症例もあることから、光凝固は絶対的な治療法ではないといえる、と述べている。

また、光凝固の施行時期は、進行の予想されるⅡ期の後期がよく、凝固部位は、境界線を中心に幅広く、二ないし三例に凝固するが、その時点で鼻側周辺に異常を認めることは少いので放置している、と述べて、11の(三)に前述した鶴岡医師の意見に消極的な態度をとつている。

本論文の最大の特徴は、光凝固実施例の病理組織学的検索の結果から、これによる著しい網膜組織の破壊が完全には修復されないまま残ることを予測し、凝固部の網膜機能が著しく低下することを明示的に指摘した点にあり、このような網膜の器質的変化をきたさない治療法をさらに検討する必要があることを表明したことであろう。

(七) 田淵医師は、本論文にひき続いて、昭和四七年九月―一二月発行の「日本眼科学会雑誌」七六巻(下巻)において、「未熟児網膜症の眼病理」と題する論文を発表し、未熟児の眼球を発生病理学的に検索し、本症と脳障害との関係につき検討した。

同医師は、研究材料として、前記病院未熟児室に収容され、適切な治療を受けながらも死亡した一二例の眼球と脳を剥出し、固定後包埋を行い、染色を行つたうえ、詳細に検索した。

そして、本症は網膜の血管増殖性病変が本態で、網膜の低酸素状態が原因といわれ、酸素使用による網膜血管の収縮と閉塞がこれに先立つ、というアシユトンの説が広く支持されているが、発病時期については、出生後とする説と、出生前とする説とがある、とし、治療法として、光凝固が高く評価されていることを認めつつも、網膜の一部に損傷を残して治癒するものであるから、本症の根本的予防、治療からは程遠い、と述べている。

また、本症の病理的所見については、網膜の神経線維層におふる内被細胞、未分化間葉系細胞の増殖およびグリア細胞の増殖は、程度の差こそあれ一般未熟児にも認められるので、この所見は、本症特有の変化と考えるよりは、むしろ未熟な網膜血管の発育過程を示すものと解釈される、として、リースらの考え方を批判し、11の(五)に前述したアシユトンによる増殖期の三分類におけるⅠ期、すなわち網膜内層における内被細胞および中胚葉性細胞からなる血管新生組織の増殖が内境界膜を通して硝子体腔へ突出する時点を本症の初期病変とするのが妥当であるとし、本症の発現は、網膜血管の未熟性が基盤となり、出生の前後を問わず、低酸素という条件が加わつて、網膜血管の先端部より増殖変化が惹起されるものと解釈するのが妥当である、と結論している。

本症と脳病理との関係については、アベリーや竹内徹が未熟児の低酸素治療により呼吸機能の未熟な児が低酸素性脳症をきたし、脳性麻痺を発生しやすいと指摘していることや、ザカリアシス(Zac-hariasis)が、本症罹患者と非罹患者とでは、前者に精神発育遅延を合併している率が高いという報告と両者に差はないという報告を併記していることを紹介し、本症罹患者の多くに脳障害が合併しており、本症発生と同じ理由で脳障害をきたす場合も否定できない、と述べている。

本論文の特徴は、本症の発生原因として網膜の未熟性と低酸素症を重視し、呼吸機能の未熟な児に対する最近の低酸素治療に対し、眼科医として初めて疑問を投げかけた点にあろう。

(八) 昭和四七年一一月発行の「眼科臨床医報」六六巻一一号には、昭和四六年九月二六日の中国四国眼科科学会において、県立広島病院の野間医師らが、10の(七)に前述した光凝固治験例を、愛媛県立中央病院の宮本医師が同(八)に前述した治験例をそれぞれ発表したことが掲載されている。

以上が昭和四七年中に発行された光凝固治験例を中心とする本症に関する眼科関係の文献の概観であるが、その内容を仔細に検討すれば、本症の発生原因については当時においてもなお未解明の点が多く、単純な酸素過剰説はもはや支持されがたいこと、光凝固ないし冷凍凝固の作用機序についてもいくつかの考え方があること、光凝固ないし冷凍凝固の実施時期については、Ⅱ期の終りころとする説からⅢ期の中ころとする説までさまざまであるが、どちらかといえば、前者の方が有力となつてきたこと、凝固部位や程度についても、広狭、疎密さまざまであること、光凝固自体が成長過程にある網膜に対する侵襲となり、何らかの副作用が将来出現する可能性を否定しがたいこと、など多くの問題点が含まれており、光凝固法は、昭和四七年末当時においても、なお追試の段階を脱していなかつたものと考えられ、当時これが治療法として確立されていたものとは考えられない。

しかしながら、同年末までに文献的発表を見た光凝固の治験例は全国で一〇〇例を超えており、しかも、その成効率はほぼ八〇ないし九〇パーセントに及んでいたこと、当時既に薬物療法はその効果がおおむね消極に解され、酸素使用の制限によつて本症の発生を予防することも、発症の根本的原因が網膜の未熟性にあり、しかもこのような未熟性の強い児ほど酸素投与の必要性が大きいことから、多くを期待しがたい状況にあつたこと、従つて、本症の治療はほとんど光凝固法に頼らざるをえない状況にあつたこと、そして、本法には施行の適期があり、これを判定するためには、遅くとも生後一か月後からの週一回の定期的眼底検査が必要であること、右発表にかかる治験例の相当部分は、他院からの転院例であつたこと(このことは、光凝固の有効性が相当広く認識されるようになつたことを示すと同時に、光凝固装置が全国的に普及しておらず、光凝固を実施しうる技術水準を有していた医師の数が限られていたことをも意味している。)などは、昭和四七年末当時、少くとも未熟児の保育医療に関与していた眼科医の間においては、相当広く認識されていたものと考えられる。

13  昭和四七年における小児科関係の本症に関する文献の概観

そこで、次に、昭和四七年中に発行された本症に関する小児科関係の文献を概観してみよう。

(一) 昭和四七年六月、関西医科大学小児科の岩瀬帥子らは、「未熟児新生児研究会会誌」において、「高濃度酸素療法」と題する論文を発表したが、右論文は、未熟児、新生児の保育医療に関心の高い小児科医らの集団である同研究会における講演の内容を文書化したものである。

右論文において、同医師らは、呼吸窮迫症候群に対する高濃度酸素療法が、効果的にチアノーゼを取除き、しばしば救命的であるため、広く実施されているが、その開始時期、実施方法あるいは個々の症例の重症度などによつて効果的に差が見られ、画一的な治療基準や治療効果の判定が困難であることを指摘し、他方、右療法を行つた際の危険として、肺障害や本症の発生が予測されるために、右療法の施行には適切な管理が必要であるが、動脈血PO2の安全な上限および酸素投与期間の許容範囲などがなお未解決であることを指摘し、IRDSの治療経験からその成績と意見を述べている。

まず、高濃度酸素療法の適応を定める必要条件として、頻回な動脈血ガス分析と酸素流量計による正確な酸素投与と器内酸素濃度の絶えざる監視を掲げ、IRDSの診断基準として、(一)一分間六〇以上持続する多呼吸、(二)呼気性呻吟、(三)陥没呼吸、(四)全身持続性チアノーゼの四項目のうち、二つ以上が生後間もなく出現して一時間以上持続することが条件であるとしている。

しかし、正常新生児・未熟児における動脈血PO2については、馬場らが生後三時間は七〇ミリ前後、生後一二時間では五〇ミリに安定すると述べ、アベリーもその許容範囲として七〇ないし八〇ミリを適当としているが、PO2の上限を一〇〇ミリ以上としている研究者もあり、特にアメリカのクラウス(Klaus)が一六〇ミリとしていることから、各症例の重症度、条件などの相異のため画一的に統一しえない、と述べ、循環呼吸系に異常のあるような児では、高濃度酸素療法の最低濃度である四〇パーセントではPO2の上昇が見られない場合も多く、必要に応じて七〇パーセント、一〇〇パーセントという高濃度酸素を投与し、有効にPO2を維持させようとする必要もある、とし、他方、四〇パーセントの酸素投与後二時間でPO2が一〇〇ミリ以上を示した例や末梢性チアノーゼでは動脈血PO2が正常または上昇している例もあることを示し、高濃度酸素投与中の血液ガス分析も、一五分後、二時間後、さらに二四時間毎に行うことにしている、と述べているが、PO2の値は、橈骨動脈から採血した場合と、腫部毛細管から動脈血を採取した場合とで必ずしも一致せず、一般には前者の方が後者より高いが、両者間には統計学的に有意な相関がないことを指摘し、橈骨動脈からの採血が比較的容易であり、習熟すれば繰返して検査が可能であることから、前者の採血方法を推奨している。

そして、高濃度酸素療法と本症との関係については、発表時までに本症と診断された症例は四六例であるが、失明に至るような重症例は末だ経験していないこと、右四六例中PO2が一二〇ミリを示した症例はなく、全例四〇ないし一一〇ミリの間に分布していたこと、右四六例中二例のIRDS患児は酸素投与を受けることなく本症を発生したが、それぞれの生下時体重と在胎週数は、一、二〇〇グラム(三〇週)、一、九九〇グラム(三三週)でありPO2は八九ミリ、七五ミリであつたことから、本症の発生原因を一元的に酸素環境のみに求めることは不可能であり、発症の絶対条件として網膜の未熟性、ことに網膜血管の未熟性を強調し、その証左として、本症が体重八〇〇グラムないし一、六〇〇グラムの小さな未熟児に多く見られたことを指摘している。

同医師は、最近一三例に光凝固が施され、予後は療痕期Ⅰ度を残す程度の好結果が得られたことを報告しつつも、高濃度酸素投与時には短期間の使用にとどめ、絶えず、PO2の測定を行い、症状改善の兆しが見られる場合には速かに酸素濃度を低下してゆくことが必要である、として、酸素の使用法に対する厳重な監視の必要性を説いている。

(二) 同じく昭和四七年六月、植村医師は、「小児科臨床」二五巻六号に、「未熟児網膜症」と題する論文を発表した。

右論文において、同医師は、本症の歴史的背景を概説し、その末尾を、「一九六八年、永田らによる光凝固による治療成績の報告を契機として、今や未熟児を取扱う施設においては眼科的管理は常例的なものとなつてきている。」と結んでいるが、当時は全国の未熟児保育医療施設の実態を調査した報告がなく、同医師自身当時までに調査を行つたわけでもなかつたから、右論述は、あくまで、同医師の全般的印象を述べたものにすぎない、と解される。

次いで、同医師は、本症の原因および病態に言及し、原因として、母体側か患児側の先天性あるいは環境因子の関与、未熟児に使用する水溶性ビタミン、鉄剤、粉乳、電解質、輸血などが関係するという説、ビタミンE欠乏説、ウイルス感染説、ホルモン欠乏説など幾多の説が出されたが、これらの説は現在では否定的であり、現在最も重視されているのは酸素との関係である、と述べ、人の網膜が胎生四か月までは無血管であり、四か月以降に硝子体血管より網膜内に血管が発達し、胎生六ないし七か月において最も活発に発達し、八か月では、網膜鼻側の血管は周辺まで発達しているが、耳側では鋸歯状縁まで達していないため、在胎週数の短い児ほど、網膜血管の未熟度は強く、鋸歯状縁との間の無血管帯も広いが、この血管の発達度は、個体差が強く、成熟児でも未熟児でも未だ発達途上のものもある、とし、このような発達途上にある未熟な網膜血管に対する酸素の障害は、その濃度と投与期間の両者に直接関係し、濃度が一定ならば期間の長短に関係する、と述べ、本症の経過が二相に分けられ、原発性の変化は、血管攣縮―閉塞であり、続発性の変化は、血管形成組織の増殖である、としつつも、網膜内皮細胞の崩解が、酸素の直接の毒作用によるのか、血管閉塞による循環障害によるのかは未解明である、と述べ、血管形成組織の増殖は、網膜内皮細胞の壊死や循環障害による局所の代謝障害、無酸素状態などによつてもたらされる、と述べているが、他方、本症の発生には、無血管帯の低酸素も考慮する必要があり、酸素を投与しなくとも、自からの低酸素から網膜浮腫を生じ、本症を発生する可能性も十分にある、との塚原医師らの説を紹介し、さらに、酸素以外の発症因子として、出生を境に起る胎児ヘモグロビンの酸素飽和度の急激な上昇とか、胎児PO2値の新生児PO2値への変換といつたものが、発症の引き金になるのではないか、とのアルフアノ(Alfano)の説を紹介し、また、未熟網膜に対する光の影響も考えねばならない、とし、検眼鏡や光線療法による光刺激が、本来光に曝されるべきでない胎生二八ないし三二週の未熟児の網膜に影響を与えることは当然考えられる、と述べ、最後に、本症が双胎児にしばしば見られ、成熟児にも見られることから、出生前の因子や胎盤異常との関係も考えられる、と述べている。

そして、本症に罹患しても、網膜剥離を起す頻度は極めて少く、発症例の八パーセント、未熟児全体の一パーセント内外である、と述べ、その機序については、血管形成組織の線維化に伴う牽引性剥離と、滲出性剥離の両方が考えられ、そのどちらの比重が大きいかによつて臨床経過が異なり、増殖性変化が二、三日の間に急速に剥離に進む型のものをラツシユ・タイプと呼び(後に、植村医師を主任研究者とする厚生省昭和四九年度研究班により、「Ⅱ型」と名付けられた。)、この型には、滲出性機序の参与が大きいものと考える、と述べ、オーエンスの臨床経過の分類が必ずしもそのまま妥当しない症例のあることを示唆している。

次いで、同医師は、本症の病理組織学的研究の結果から、従来、本症の初期病変として報告されている内皮細胞の集簇が果して病的変化であるか否か問題があるとし、アシユトンの病理学的三分類を紹介し、そのⅠ期を本症の初期病変とするならば、従来の文献に報告されている死産児や生後間もなく死亡した未熟児の眼球に本症の初期病変を認めたという記述は疑わしいものとなる、と述べている。

さらに、同医師は、本症の臨床経過(検眼鏡的所見)について、オーエンスらの分類が、個々の症例による臨床経過の多様性から、必ずしも妥当性を有しなくなつたことを指摘し、いわゆる「未熟眼底」が正常か異常かの区別をつけがたいことから、眼科的に確実に病的変化として捉えられるのは、続発性変化としての血管性病変の出現であるとし、この時点をもつて発症の時点とする、と述べて、診断基準の統一の必要性を示唆し、検眼鏡的所見より見た予後の判定基準として、

(1) ヘイジイ・メデイアの一か月以上続くもの(未熟眼底)は、発症の危険が大きい。

(2) 後極部の網膜血管の迂曲、怒張の著明なもの、

(3) 眼底に出血、滲出性変化の認められるもの、

(4) 散瞳が不良となるもの、虹彩血管の新生が認められるもの、

(5) 硝子体混濁の著明なもの、

(6) 発生より短期間で剥離の始まつたもの、

(7) 境界線が後極側によつており、無血管帯の広いもの

は、不可逆性変化をもたらすことが多く、放置しておいた場合の予後は不良である、と述べている。

最後に、同医師は、本症の予防および治療に触れ、本症の予防は主として酸素療法に向けられ、そのガイドラインとしては、(1)PO2でモニターする方法と、(2)検眼鏡的検査でモニターする方法とがあるけれども、(1)本症の発症しやすい一、二〇〇グラム以下(甲第一七号証に「以上」とあるのは、この趣旨と解される。)の未熟児では、生後一か月以上もヘイジイ・メデイアが続き、眼底検査を満足に行いえないことと、(2)動脈PO2値と網膜血管径との間には相関関係が認められないこととにより、(2)の方法は、酸素療法の安全なガイドラインとならないことが明らかになつた、と述べ、アシユトンらによる間歇的酸素投与法は、動物実験の結果、本症の予防に有効であることが確認されたが、人の未熟児に適用するには、無呼吸発作や呼吸障害のある児に対する生命の危険の問題がある、とし、結論的に、眼科医は、本症の予防という点に関しては、未熟児管理に寄与しえない、と述べている。

そして、未熟児の眼科的管理の重点は、本症の危険を予知し、早期に発見し、適切な治療を行うことによつて失明、弱視をなくすることにある、とし、この目的のため定期的眼底検査は必須なものとなる、と述べて、国立小児病院における方法を紹介し、全身状態により眼科的検査が可能となつた場合は、小児科医の依頼により、もれなく一週一回の定期的眼底検査を行い、発症を捉えたら一日おきくらいに観察するとともに、ステロイドホルモン剤の投与を開始するが、さらに進行する兆候があれば、光凝固または冷凍凝固を行う、と述べている。

もつとも、本症の臨床経過の多様性と自然治癒の高率なことから、光凝固の適応は厳格に定めるべきであるとし、未熟児の一ないし二パーセントのみが治療の対象となる、と述べ、長期間の観察により光凝固による障害がないことが明らかになつたら、自然治癒するか進行するか判断のつき難い症例にも、早期に光凝固を行つた方が最悪の事態は避けられる、としつつも、田淵らの病理組織学的報告などから、やはり慎重にならざるをえない、と述べている。

そして、現行の治療法として光凝固や冷凍凝固にまさるものはない、としつつも、現況で、すべての未熟児を扱う病院において、眼科医による定期的眼定検査が行われているかどうかはなはだ疑問であり、凝固装置も、全国的に限られた医療施設にしか備付けられておらず、発見してからこれらの病院への移送に関する連絡も必ずしも日頃からとられてはいない、として、未熟児を扱う病院では、小児科、産科が眼科に協力し、凝固装置を備えることに努力してほしい、と述べているが、これらの治療法だけで、すべての本症が治るとは断定できない、と付言している。

本論文は、昭和四五年一二月発行の植村論文にひき続いて、植村医師が未熟児の保育医療に携わる小児科、産科の医師を対象に発表した論文であるが、その最大の意義は、昭和四七年当時の眼科領域における水準的知識を過不足なくこれらの医師に紹介するとともに、若干の新仮説にも言及し、本症に関する眼科的研究の成果と現状に対するこれらの医師の理解と協力を再度要請した点にあるといつてよい。

(三) 同年八月には、国立岡山病院小児科の山内逸郎医師が、「日本産科婦人科学会雑誌」二四巻八号に、「未熟児保育とその進歩」と題する論文を発表したが、これは、同学会における招請講演の内容を文書化したものである。

右論文によれば、同病院において未熟児保育を手がけた昭和二七年から昭和四六年までの間に保育された三、〇〇〇余名の未熟児について、生下時体重別にその死亡率をまとめると、次表のようになる(単位はパーセント)、とされている。

年(昭和)

生下時体重別区分(グラム)

保育例数

一、〇〇〇

以下

一、〇〇一

~一、五〇〇

一、五〇一

~二、〇〇〇

二、〇〇一

~二、五〇〇

27―31

二〇七

32―36

八〇

四七

一三

七三八

37―41

七九

三八

一五

一、一〇一

42―46

六八

二七

一、〇九七

三、一四三

そして、同医師は、最も著しい事実として、右第四期に、体重一、五〇一ないし二、〇〇〇グラムの群と一、〇〇一ないし一、五〇〇グラムの群の死亡率が著しく低下したことを挙げ、その理由を同期における(一)新生児の適応生理への理解の深化、(二)保育器、監視装置などの機器および施設の改善、および(三)超微量定量法の実施の確立、の三点に求めている。

同医師は、未熟児保育の要点を生後の時間別に次のように列記している。

(1) 生後数時間までの時点においては、酸素投与、気道確保、体温損失防止、監視など

(2) 生後数日間は、保温、酸素投与、血糖維持、呼吸障害・呼吸停止の監視、酸塩基平衡、水分電解異常の修正、黄疽への配慮

(3) その後生後数週間までは栄養、感染防止が重点となつてくる。

右要点の列記の特色は、生後数日間を過ぎた後の保育の重点が、酸素投与から栄養、感染防止に移行している点であり、このことと、未熟児の最大の死因とされるIRDS、頭蓋内出血、肺出血などによる死亡がほぼ生後一週間内に集中して起る、との証人村田文也の証言等を総合すると、通常の未熟児の保育過程において、酸素の投与が最優先に考慮されなければならない期間は、少くとも救命という観点から見る限り、生後の一週間ないし一〇日程度と考えられ、これに脳性麻痺の防止という観点を併せ考えても、たかだか生後一か月程度と考えるのが妥当であろう。

山内医師は、酸素療法の問題点として、チアノーゼを酸素投与の目標とすることは、臨床的には最も簡単であるが、その発現には個体差があり、程度の判定にも観察者の個人差が大きいこと、RDSを呈する未熟児には、常に高濃度酸素が与えられるが、これらの児には動静脈短絡を起しているものが多く、短絡量が四〇ないし六〇パーセントを超えると、一〇〇パーセント近い酸素投与すらほとんどPO2の上昇に有効でなくなることなどを指摘した後、本症の予防に触れ、現在では呼吸障害のあるときは充分な酸素濃度を与えるようになつてきており、再び本症の発生の可能性が問題となり始めた、として、酸素投与は、未熟児の動脈中のPO2によつて監視すべきであるといわれるようになり、その安全域は、一〇〇ミリを超えてはならず、六〇ないし八〇ミリに維持するのが望ましいという一般的見解となつた、とし、仮死発作の反覆をおそれて、発作回復後も酸素濃度を下げずにいると、PO2が異常に上昇し、網膜血管は高いPO2に長時間曝されることとなり、現在では、このように仮死発作の予防に関連して発症する本症が多いと考えられる、と述べている。

もつとも、同医師は、わが国においてPO2測定が充分普及しているとはいいがたい、とし、その理由として、測定機器の高価であることや、動脈血を繰返し採血することの困難さなどを挙げ、臍動脈留置カテーテルによる採血に問題があること、側頭動脈、橈骨動脈からの採血では反復的な同一条件での採血が容易でないことなどを指摘している。

その他、同医師は、未熟児の低体温や高ビリルビン血症(黄疸)の問題などを論じ、未熟児においては、一つの適応障害(例えば、低体温)が他の適応障害(例えば、肺血管収縮)を惹起し、これがさらに別の適応障害(例えば、左右短絡)に発展する、という悪循環があり、この悪循環の渦の入口として、呼吸停止発作、低体温、低血糖などを挙げ、これらの入口から悪循環に巻込まれないよう積極的に治療し、監視してゆくことが未熟児保育の要点である、と述べている。

以上が、昭和四七年一年間における本症に関する小児科関係の文献の概観であるが、その中でも注目すべきは、やはり(二)の植村論文であり、眼科領域における当時の水準的知識を要領よくまとめて小児科医に紹介した功績は大きい。

しかしながら、(三)の山内論文からも窺われるように、未熟児の保育医療というものは、きわめて総合的な医療行為であつて、単に酸素療法のみがこれに携わる小児科医の関心事ではないのであり、保温、低血糖の防止、高ビリルビン血症の治療などさまざまの医療行為の複合体という性格を有しており、そこにおいては、まず何よりも、未熟児の生命を救うことに最大の価値が求められており、しかも、これに優るとも劣ない価値として脳性麻痺や失明を防止することが要請されているのであり、これらの諸要請は、一面では同時に満たされることもあるが、他面ではしばしば相互に矛盾し、きわめて困難な選択を担当医師に突きつけるのであり、これまで概観してきた酸素療法および本症に関する文献において、各論者がそれぞれ微妙にニユアンスを異にする立場をとつているのも、未熟児の保育医療におけるさまざまの要請のいずれに最大の価値を置くかについての選択が、根本的には、各論者の医療に関する価値観の微妙な相異に深く根ざしているためであろう。

14  昭和四七年末当時における小児科医の本症に関する認識

以上のことを前提として、昭和四七年末当時における未熟児の保育医療に携わる小児科医の本症に関する平均的認識の内容を探るならば、およそ次のようなものとなろう。

(一) 未熟児に対する酸素療法に関連して本症が発生し、その中には進行して失明に至るものがあり、発症の原因として酸素の過剰投与が有力に主張されていること

(二) 従来RLFに至らないための安全域と考えられていた酸素濃度四〇パーセント以下という説には必ずしも依拠しがたいこと

(三) 本症に対する有効な治療法として光凝固法があり、いくつかの医療機関において本症による失明の防止に成功していること

(四) 右治療法を施行するためには、眼科医の協力を求めて未熟児の定期的眼底検査を行わなければならないこと

おおよそ、以上の程度であつたと考えられ、これより詳細な認識を有していたのは、光凝固装置を備えた医療機関に勤務し、実際に眼科医に依頼して定期的眼底検査や光凝固を実施してもらうことのできた小児科医や大学等の研究機関に附設された病院に勤務し、本症の専門的研究者に接触する機会に恵まれていた小児科医、あるいは、特に本症に関して強い関心を抱き、早い時期から内外の文献を調査し、自からも未熟児の眼底を観察するなどして臨床研究をしていた馬場一雄医師など一部の優れた小児科医などに限られていたものと考えられる。

四各担当医師の医療行為と原告らの失明

1  本症の原因に関する現在の通説

三の13の(二)に紹介した植村論文からも明らかなとおり、本症の原因として現在までに右論文掲記のような幾多の説が出されたが、酸素原因説以外は現在では否定的であり、今日では酸素を原因として考えるのが通説となつている。

ただ、酸素がいかなる機序によつて未熟な網膜を障害するのか、という点については未だに定説がなく、網膜内皮細胞の崩解が酸素の直接の毒作用によるのか、血管閉塞による循環障害による二次的変性であるのかは未だ解明されていないことも、右論文の述べるとおりであり、さらに、例外的ではあるが、酸素以外の因子、例えば、未熟児貧血、光刺激、胎盤異常などを原因として本症が発生する可能性もなお否定されていない。

なお、ここで注意しなければならないことは、酸素が原因である、という場合の「酸素」は、多くの論文においては、未熟児に対する酸素療法によつて投与された酸素、という意味に用いられているが、少数の論文においては、大気中の酸素をも含む酸素一般、という意味に用いられており、出生を境に起る胎児ヘモグロビンの酸素飽和度の急激な上昇や胎児PO2値の新生児PO2値への変換などを発症の原因として掲げるアルフアノの説などは、前者の意味においては酸素原因説とはいえないが、後者の意味においては、なお酸素原因説に含まれる可能性があるので、用語法上注意を要する、という点である。

本判決においては、多数の論文の用語法に従い、前者の意味において、「酸素」ということばを用いることにしている。

ところで、本症の原因に関する現在の学説が完全に一致して認めていることは、本症が網膜の未熟性、特に網膜血管の未熟性をもつて生まれた児においてのみ発生する、という点であり、成熟児における本症の発生も、右植村論文におけるように、網膜血管のみは未発達で出生したことによつて説明されており、他の原因の如何にかかわらず、本症の絶対的原因すなわち素因が網膜の未熟性にあることは争いの余地のないところとなつている。

2  本症の素因としての各原告らの未熟性と他の原因

各原告らの臨床経過において前述したように、原告森、同大池、同石川、同塚本の生下時体重は、それぞれ、一、五八〇グラム、一、六〇〇グラム、一、四二〇グラム、一、二八〇グラムであり、在胎週数は、それぞれ、三一週、三〇週、三一週、三〇週であつたから、各原告らは、当然網膜の未熟性、特に網膜血管の未熟性をもつて出生したものと推認され、本症発生の素因を有していたことは疑いがなく、中でも原告塚本の未熟性はきわめて高かつたものと考えられる。

そして、各原告らに対する酸素投与期間を見ると、それぞれ、三四日間(初回入院時)および一四日間(再入院時)、三六日間、四四日間、二八日間であり、昭和四五、六年に保育を受けた前三者に対する投与期間のかなり長い点が注目される。

さらに、酸素以外に本症の原因となりうるものとして考えられることは、原告森が双胎かつ骨盤位で出生したこと、および原告石川が双胎で出生したことから、右両原告については胎盤異常が考えられ、また、原告大池については、母親が糖尿病と前期破水を示していることから、何らかの出生前因子の影響を受けた可能性を否定しがたいが、それ以上のことは明らかでない。

なお、原告塚本は、酸素投与期間中に四回ほど血液ガス分析を受け、生後二日目にはPO2四六ミリという低値を示しており、三に概観した論文の中には、12の(七)に紹介した田淵論文のように発症条件として低酸素を強調するものや、13の(二)の植村論文に紹介された塚原医師らの説のように、酸素を投与しなくとも、自らの低酸素により発症する可能性も十分にある、とするものもあることからすれば、同原告の罹患した本症が酸素不足を原因として発生した可能性も否定しがたいが、同原告のPO2は、六日目には六四ミリと正常値に達しており、一三日目には七八ミリと、正常値ながらやや高目に出ており、二八日目にも六四ミリを示していたのであるから、右の可能性はさほど重視すべきものとは考えられない。

3 各原告らの罹患した本症の発生原因の認定

結局、現在の本症の発生原因に関する通説である酸素原因説に依拠し、かつ、前述の各原告らの未熟性とこれに対する比較的長期にわたる酸素投与に着目すれば、各原告らは、自らの網膜の未熟性を素因とし、被告ら病院の各担当医師によつて投与された酸素を他の原因(誘因)として本症に罹患したものと推認され、これが進行して網膜剥離をきたし、失明したものと推認するのが合理的である。

けだし、本症のように、その病態が必ずしも十分に解明されていない疾患について、その原因とされるものと一定の病変との間の因果関係を認定するに当つては、特段の事情がない限り、口頭弁論終結時に最も接着した時点における臨床医学の通説的見解に依拠し、右見解が当該病変の発生原因としている因子の存在が認められるときは、これが右病変の発生原因となつたものと推認するのが、訴訟における事実認定を支配する経験則に合致するものと考えられるからである。

従つて、右因果関係の推認を覆すためには、これを争う当事者において、右臨床医学の通説的見解が合理的根拠を有しないことを明らかにするか、または、具体的事件に則して、右見解が当該病変の発生原因としている因子以外の因子が当該病変を発生させたことを裁判所に認めさせるに足る証拠を提出しなければならないものと解される。

本件においては、被告らにおいて、未だ右の程度に達する主張および立証がなされているとは認めがたいから、結局、各原告らの失明は、被告ら病院の各担当医師による酸素投与によつて惹起されたものと推認するほかはない。

五各担当医師の過失について

1 酸素の過剰投与について

原告らは、本件各医療行為の当時における未熟児に対する酸素投与について、保育担当医師は、未熟児に明らかな呼吸障害または強度のチアノーゼがある場合にのみ酸素を投与すべきであり、このような状態が消失したときは、速やかに投与を中止すべきである、と主張する。

そして、このような考え方は、小児科、産科関係においては、三の7に紹介した昭和四三年四月発行の三谷論文や三の11に紹介した昭和四六年一〇月および一一月発行の奥山論文二編に現われており、本件各担当医師がこのような考え方のあることを認識しえなかつたとは考えられない。

しかしながら、このような考え方は、本症の発生および進行の防止という観点のみからすれば、たしかに有益な示唆であつたといえようが、前述のとおり、未熟児の保育医療における諸要請の中には、未熟児の救命や脳性麻痺の防止といつたきわめて重要な諸価値が含まれているのであり、明らかな呼吸障害や強度のチアノーゼが消失した時点においてただちに酸素の投与を中止することが、未熟児の呼吸状態の急変による生命の危険や低酸素性脳症の危険に結びつくことも十分に考えられるのであるから、右のような考え方を未熟児の保育管理に携わる小児科医における通説とみることには多分に問題があり、三の7に紹介した昭和四四年一二月発行の東大「小児科治療指針」も、チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対してルーチンに酸素を投与することを否定していないことからすれば、まして前述の考え方を法的義務の設定基準とすることは到底できない、といわざるをえない。

もつとも、昭和四五、六年当時においても、投与する酸素の濃度を四〇パーセント以下に抑えるべきことは、小児科医の間においても多数説となつていたと考えられ、<証拠>によれば、ムルヨノ、榊原両医師とも、このことを認識していたものと認められ、ムルヨノ医師が原告森に対して当初約一一日間、同大池に対して当初約六日間、それぞれ五リツトルの酸素を投与した(被告日赤自からこの場合における酸素濃度が四〇パーセントを超えていたことを認めている。)ことは、当時の多数説に反するものと考えられる。

しかしながら、二の5に前述したように、右各原告らの臨床経過に照らして、ムルヨノ医師の酸素投与方法が未熟児の保育医療に関する原則に背馳したものとまでいうことはできず、三の13の(三)に前述したように、通常の未熟児の保育過程においては、救命という観点から見る限り、酸素の投与が生後の一週間ないし一〇日間程度は最優先に考慮されなければならないことも明らかであるから、ムルヨノ医師が、右観点を重視し、右各原告らの臨床経過に鑑み、敢えて当時の多数説に反し、四〇パーセントを超える酸素を投与したことも、なお未熟児の生命を預かる小児科医としての裁量の範囲内に属していたものというべきであり、これをもつてムルヨノ医師の過失として捉えることは妥当でないと考えられる。

また、榊原医師が、各原告らのうちでは比較的呼吸状態の良好であつた原告石川に対し、おおむね二〇パーセント台の低濃度であつたとはいえ、四四日間も酸素を投与したことは、現在の臨床医学の水準的知識に照らせば、多分に問題のあるところであるが、前述の東大「小児科治療治針」の記述からすれば、昭和四五年当時は、なお呼吸状態の改善された児に対するルーチンの酸素投与が否定されてはいなかつたものと考えられるから、榊原医師が、同原告のチアノーゼが消失した二七日目以後も、なお僅かな呼吸障害にも対拠して低酸素脳性の発生を予防するため、二リツトル・三〇パーセント以下の酸素を約一〇日間、一リツトル・二〇パーセント台の酸素を約一週間、それぞれ投与したことも、なお小児科医としての裁量の範囲内にあつたものというべきであり、この点を榊原医師の過失とすることはできない。

さらに、水野医師の酸素投与方法は、原告塚本の臨床経過に照らし、ほぼ必要かつ十分に行われたものということができ、水野医師が同原告に対する酸素投与量をできるだけ抑えるべく、二日目と五日目に一時投与量を減じて経過を観察していることや、本症の発生および進行の防止を直接の目的としていたわけではないが、酸素投与期間中に一応四回程度の血液ガス分析を行い、PO2を測定して酸素投与の指標としていたことは、当時の一般総合病院における未熟児の管理方法としては、かなり優れた点といつてよく、水野医師の酸素投与に臨床医学上格別の瑕疵を見出すことはできない。

2 定期的眼底検査の懈怠について

原告らは、本件各医療行為の当時における未熟児の保育医療に携わる小児科医は、本症を早期に発見し、適切に治療するために、眼科医の協力を仰ぎ、未熟児に対し、酸素投与中はもとより、投与中止後も一定の期間、定期的に眼底検査を行うべきである、と主張する。

各原告らの臨床経過において述べたとおり、原告森、同大池は入院期間中一度も眼底検査を受けておらず、原告石川は、被告厚生連の主張によれば、三一日目に眼底検査を受けたとされているが、右主張の採用しがたいことは前述のとおりであるうえ、右以外には入院期間中一度も眼底検査を受けておらず、原告塚本は、入院期間中の六八日目に初めて眼底検査を受けたが、その時には既に本症が進行しており、七〇日目には失明していることがほぼ確実となつていた。

三に前述したとおり、眼科関係の論文においては、昭和三九年ころから、本症活動期の症例に対し薬物療法が実施されていたことが報告され始め、当然のことながら、治療の前後に未熟児に対する眼底検査が行われていたことを窺知することができるけれども、当時のこのような眼底検査は、本症の予防または治療を目的として行われていたというよりは、本症について特に高い関心を寄せていたごく一部の先駆的研究者によつて、その実施対象や実施時期を特に意識的に定めることなく、実験的に行われていたという性格が強く、主として、本症の病態を知るという研究目的のために行われていたものと考えられる。

三の4および5に紹介した昭和四二年二月発行の「臨床眼科」および同年八月発行の「医療」に掲載された植村医師による昭和四〇年九月以来の未熟児の定期的眼底検査も、本症活動期症例の実態を知ることを目的としている点において、基本的には研究目的のために行われていたものと考えられるが、植村医師の優れていた点は、これを同一の医療機関において未熟児の保育医療に携わつていた小児科の奥山医師と共同して行い、実施時期を週一回と定め、多数の収容未熟児に対して継続的に行つた点であるところ、このような検査を行いえたのは、本症に関する先駆的研究者である植村医師が、国立小児病院という小児専門の設備と人員の整つた医療機関の眼科医長という地位を与えられ、しかも奥山医師という小児科医には稀な本症に関する優れた研究者の協力を得られた、という好条件が重なつたためであると考えられ、これをただちにその他の未熟児保育医療機関に推及することは妥当でない。

そして、昭和四二、三年当時においては、本症に関する研究自体も、常にこのような「生きた」症例を用いて行われていたわけではなく、三の6に紹介した湖崎、竹内らの昭和四三年一〇月発行の論文のように、既に瘢痕期を経過してから受診した新生児ないし幼児について、各保育医療機関よりそのカルテを取寄せ、その臨床経過を回顧的に調査し、本症の原因を探る、といつた研究方法をとつていた研究者もあつたのであり、当時においては、研究目的のための眼底検査を行つていた医療機関においてすら、本症の発症率や発生原因を研究するに足るだけの検査例を集積するに至つていなかつたものと考えられ、まして本症の予防ないし治療を目的として眼底検査を行つていた医療機関がどれほど少かつたかは推して知るべきであろう。

しかも、本症の発生の予防という点から見る限り、定期的眼底検査が殆ど無意味であることは、つとに、三の6に紹介した昭和四五年二月発行の岩瀬論文に示唆されており、同13の(二)に紹介した昭和四七年六月発行の植村論文も確認するところであつて、結局、定期的眼底検査は、本症に対する治療方法、なかんずく、有効な治療方法と結びついてのみ医療行為としての意義を有するものというほかはなく、このような治療方法が広く認識されていない時期において、一般の総合病院に勤務し、未熟児の保育医療をその任務の一部としているにすぎない小児科医に対し、定期的眼底検査の実施を要求することは、格別本症に関する研究目的を有しないこれらの小児科医にとつては、無意味な負担を強いられることに他ならず、かえつて、このような頻回の眼底検査が、未熟児の特質について十分理解を有しない一般の眼科医によつて不用意になされるようなことになれば、未熟児の保育医療の原則に背馳するような事態の発生する危険性も絶対にないとはいいがたい。

そこで、次に、定期的眼底検査と結びつくに足る有効な治療方法の存否を検討する。

まず、適切な酸素投与であるが、通説によれば、本症は主として酸素投与期間経過後に発生するので、これが有効な治療方法となるとは考えられない(もつとも、古くは、本症の発生を見たら、再び未熟児を高濃度酸素環境に戻す、という治療法が唱えられたこともあつたが、現在では顧みられない)。

適切な酸素投与は、主として本症の予防面に関するものであり、未熟児の眼底所見が酸素療法の安全なガイドラインとならないことは、前掲植村論文の指摘するとおりである。

次に、薬物療法であるが、現在までに提唱されたもののうち、ビタミンA、E、P、ATP、蛋白同化ホルモンなどの治療効果はすべて消極に解されており、本件各医療行為当時用いられていた主な薬物は副腎皮質ホルモンであるが、昭和四五年に、前掲岩瀬論文、三の10に紹介した同年五月発行の永田論文および同3に紹介した同年一二月発行の植村論文によつて、自然治癒との間に有意な差を見出しがたいことが指摘されて以来、副腎皮質ホルモンの有効性を積極的に確認した報告はなく、現在に至るも、これを効果の実証された治療法と見ることはできない。

最後に光凝固法であるが、<証拠>からも明らかなように本件口頭弁論終結時現在において、光凝固法の治療効果を疑う者はなく、今日では確立された治療法となつており、最初の論文発表を見てから未だ一〇年を経過しておらず、副作用の存在の可能性が完全に否定されたわけではないけれども、現時点における本症に対する有効な治療法としては、作用機序をほぼ同じくする冷凍凝固法とともに、ほとんど唯一のものといつてよい。

してみると、定期的眼底検査と結びつくに足る有効な治療手段としては、現在までのところ、結局、光凝固法(冷凍凝固法を含む。)があるのみと考えて差支えない。

従つて、未熟児の保育医療に携わる小児科医にとつて、本症の治療を目的とする定期的眼底検査の実施義務が生じてくる時期は、光凝固法の有効性に関するこれら小児科医の平均的な認識の広がりと深まりがある程度まで達した時期と考えざるをえない。

ところで、三の10に前述したところからすれば、昭和四五年末当時におけるこれら小児科医の光凝固法に対する平均的な認識は、たかだか、本症の治療法として二、三年前に本法が登場した、という程度のものであつて、その有効性を明確に認識していたものとは考えられない。

従つて、ムルヨノ医師や榊原医師が、本法の存在すら知らなかつたことも、強ち非難さるべきではないと考えられ、本法の有効性を認識していなかつたことも、無理のないところであつたと考えられる。

よつて、右両医師に、その各医療行為当時、本症の治療を目的として定期的眼底検査を実施すべき義務を負わせることは妥当でないというべきであり、右検査を実施しなかつたことをもつて、右両医師に法的な過失があつたとすることはできない。

ところで、<証拠>によれば、水野医師も、基本的には、静岡市という地方中都市における一般総合病院に勤務する小児科医であつたものと認められるから、原告塚本に対する医療行為の当時における未熟児の保育医療に携わる小児科医の本症に関する平均的な認識は有していなければならないものと解され、ここにいう「平均的認識」の内容は、ほぼ三の14に掲記した四項目程度のものと考えられる。

<証拠>によれば、水野医師は、本件医療行為当時右四項目のうち、(一)の点と、本症に対する治療法として、ビタミンEの投与やステロイド療法のほかに、光凝固法が存在すること、未熟児に対して眼底検査をなすべきこと、などを認識してはいたが、光凝固法に関しては名称以外の具体的な内容を全く認識しておらず、右にいう眼底検査も、未熟児の全身状態をチエツクする一つの方法として行うものと考え、本症の早期発見を目的として定期的に行わなければならないものとしては把握していなかつたものと認められる。

そうであるとすれば、水野医師には、当時の未熟児保育医療に携わる小児科医の平均的認識に欠けるところがあつたものといわざるをえず、とりわけ重視すべきことは、本症の治療法としての光凝固法の有効性についての認識を欠いていたことであつて、このことが、ひいて定期的眼底検査の意義を見失い、生後六八日目という遅い時期に初めて眼底検査を行うことにつながつたものと思われる。

もつとも、前認定の原告塚本の臨床経過から明らかなように、同原告の臨床症状は相当に悪く、酸素投与を中止した生後二九日目の後も、五六日目までは保育器内に留まらざるをえなかつたことのほか、前掲水野証言からも明らかなように、当時静岡市立病院には常勤の眼科医がおらず、他の病院の眼科医が週一回診療に訪れるのみであつたこと、倒像鏡による眼底検査に必要な暗室が未熟児センターに設けられていなかつたことなど、主として病院管理体制上の不備からくる制約を水野医師が受けていたことも否定しえず、これらのことは、水野医師の過失を論ずるに当り、十分考慮されなければならない。

しかしながら、何といつても、水野医師の光凝固の有効性に対する認識の欠如を無視することはできず、この点の認識さえ明確であつたならば、同原告に対する酸素投与が中止され、呼吸が規則的になつた生後三〇日目以後、保育器からコツトに移床されるまでの間には、何回かの眼底検査を行う機会があつたものと考えられ、眼科医と打合わせて、少くとも二、三回程度はこれを行うことができたものと思われる。

この意味において、当裁判所は、水野医師のおかれたさまざまの外在的制約を考慮しつつも、なお水野医師には、原告塚本に対し、定期的眼底検査までは無理であつたとしても、生後三〇日目にできる限り接着した時点において、眼科医の協力の下に眼底検査を実施し、本症を少しでも早期に発見すべき義務があつたものと考える。

3  退院時の説明義務の懈怠について

原告らは、酸素の投与を受けた未熟児が退院する場合に、医師は、保護者に対し、(一)酸素投与によつて本症が発生するおそれのあること、(二)退院後も一定期間眼底検査を受ける必要のあることを説明すべき義務があると主張する。

しかしながら、(一)の事項を説明することによつて、患者が何らかの適切な治療を受けることができる、という確実な保障はなく、このような説明の存否のみに医師の過失の有無がかかるものとは到底考えられない。

また、(二)の事項を説明することは、論理的に、当該医師に定期的眼底検査を実施すべき義務があることを前提とするものというべきである。けだし、右説明は、右の義務の履行の期間が退院後の時期にまで及ぶことが往々にしてあるため、右時期において、右義務が履行不能に陥らないようにするため、患者をその履行場所まで招致する手段としてなされるのであつて、本来定期的眼底検査を実施すべき義務を負つていない医師が、退院時に突如一定期間定期的に眼底検査をなすべき義務を負うに至るとは到底考えられないからである。

してみると、前述のように、定期的眼底検査を実施すべき義務を負つていなかつたものと解されるムルヨノ、榊原両医師には、右のような説明義務はなかつたものというべきであるから、右両医師らには、この点について過失はない。

4 治療の懈怠について

原告らは、本症に対する最適の治療方法として、各担当医師は、

(一) 発症後ただちに酸素濃度を調整しまたは酸素投与を中止すべきである。

(二) ACTH、副腎皮質ホルモン等の投与によつて進行を防止すべきである。

(三) 右(一)、(二)の方法によつても進行を防

止しえないときは、光凝固または冷凍凝固によつて失明を防止すべきである。と、主張する。

しかしながら、2に前述したところから明らかなように、右のうち、(一)および(二)が本症に対する有効な治療法になるものとは考えられず、例外的に酸素投与期間中に本症が発生したとしても、ただちに(一)の手段に訴えることは、未熟児の生命や脳の救護という要請と矛盾することが多いため、これを法的義務と考えることは妥当でなく、むしろ、酸素投与を続行すべきか否かは、保育担当医師の裁量による選択に委ねらるべきであろう。

そこで、本症に対する治療として考慮さるべきは、結局、(三)のみということになる。

三の10に前述したように、昭和四五年末ころまでの時点においては、光凝固の実施結果を報告した文献は、永田医師による四編のみであり、その報告にかかる実施例も僅か一二例に過ぎなかつたのであるから、光凝固の有効性はともかく、これが当時本症の最も確実な治療法であつた、という点は、必ずしも眼科領域における臨床医学の水準的知識にまでなつていたものとは考えられず、すべては他の医療機関による追試報告に俟たなければならない状況にあつたものということができるから、この時点においては、たとえ未熟児の保育医療に眼科医が関与していたとしても、本症を発症した児に対し、光凝固を実施すべき義務があつたとは考えられないし、また、光凝固という治療法のあることを保護者に告げ、自から、または、光凝固をなしうる医療機関に転医させて、これを受けさせる義務もあつたとは考えられない。けだし、本症による失明という重大な結果の発生する危険があつたとしても、光凝固に対する臨床医学の水準的知識が右のような状態にあつた以上、右の時点においてこのような義務を認めることは、法をもつて全く予後や副作用の分らない治療法の臨床実験を強制するに等しいからであり、仮に保護者の承諾があつたにせよ、このような承諾は、わが子の失明という恐るべき事態に直面した親が、いわば藁にもすがるような気持から、臨床医学の水準的知識を顧慮することなくして下した感情的判断であることが往々にしてあり、承諾としての法的価値に多分に疑問のあることが多いからである。

もとより、右の時点においては、医師には、光凝固を実施すべき義務こそないけれども、その実施があくまで臨床実験であり、その予後に対してはいかなる保障も与えられていないことを保護者に告げ、当時の臨床医学の水準的知識と光凝固の性質を十分に説明したうえ、理性的判断にもとづく承諾が得られたならば、これを実施する自由はあるのであつて、医師の有するこのような自由は、臨床医学の進歩のために不可欠と考えられるから、敢えて当裁判所は右自由を否定するものではない。

結局、昭和四五年末ころの時点においては、未熟児の保育医療に携わる小児科医にはもとより、眼科医にも、光凝固を実施すべき法的義務はなかつたものというべきであり、従つて、これを受けさせるべく転医を勧告すべき法的義務もなかつたものというべきである。

それでは、昭和四七年末ころの時点においては、右の状況にどのような変化が生じたであろうか。

当時の本症に関する眼科関係の文献を概観しても、光凝固がなお追試の段階を脱しておらず、治療法として確立されていなかつたことは、三の12の末尾に前述したとおりである。

しかしながら、昭和四五年末に比べると、文献的発表を見ていた治験例が既に一〇〇例を超え、しかも、その成功率が例外なく高かつたこと、当時光凝固以外に本症の進行を有効に阻止し、失明を防止しうる手段がなかつたこと、右治験例中には、転院により光凝固を受けさせた、という症例が相当数を占めていること、などが注目される。

しかも、重要なことは、二年前と異なり、光凝固の有効性が未熟児の保育医療に携わる小児科医の間にも広く認識されるようになつてきたことである。

しかしながら、この時点においても、なお、光凝固による副作用の発現の可能性は否定しがたく、その適応や実施時期のほかに、その凝固部位や程度などについても定説を見なかつたことは無視しがたいところである。

従つて、当裁判所は、少くとも、被告ら病院程度の一般総合病院において未熟児の保育医療に携わつていた小児科医が、右の時点において、自院の眼科医に依頼して光凝固を実施すべき義務を負つていたものとは考えないし、また、光凝固をなしうる医療機関に転医させて、これを受けさせる義務を負つていたと考えるのにも多分に疑問を感ずる。

しかしながら、このような医師であつても、当時の平均的認識として、三の14に掲記した四項目程度のものは有していたと考えられるから、まず、本症の早期発見を目的として、眼科医の協力を求めて、できる限り定期的眼底検査に近い形で眼底検査を実施すべき義務があつたものと考えられ、次に、本症の進行症例を発見したときは、保護者に対し、その事実を告げるとともに、これに対する有効な治療法として光凝固法があることやいくつかの医療機関において本症による失明の防止に成功していることのほか、眼科医の協力を求めて、当時の臨床医学の水準的知識、特に副作用の危険が否定されていないことを説明し、なお、できるだけ近接した地域にある光凝固をなしうる医療機関を紹介し、保護者の理性的な判断による医療機関選択の余地を与えるべき義務があるものと考えられる。

そして、当時の臨床医学の水準的知識に照らせば、このような説明を与えられた保護者は、相当程度の蓋然性をもつて、未熟児に光凝固を受けさせるものと推認され、大多数の症例はこれによつて失明を免れるものと考えられる。

本件についてこれを見ると、前認定のように、水野医師は、原告塚本に対し、生後六八日目に至るまで、一度も本症の早期発見を目的とする眼底検査を実施せず、同原告の保護者に対し、右に述べたような光凝固についての説明を与えなかつたものである。

そして、前認定の同原告の臨床経過に照らせば、同原告は、コツトに移床された生後五六日目ころ以降は、相当程度の安全率をもつて、光凝固の実施可能な医療機関への転医を目的とする移送に耐えられる状態になつていたものと考えられ、移床の時点において右のような説明がなされていたならば、同原告の保護者は、ただちに、同原告をこのような医療機関に転医させ、光凝固を受けさせることができたものと考えられる。

この意味において、水野医師には、右の眼底検査実施義務と光凝固についての説明義務を怠つた過失があるものといわざるをえず、右過失と原告塚本の失明との間には、相当程度の蓋然性をもつて、因果関係の存在を推認することができる。

しかしながら、ムルヨノ、榊原両医師には、本症の治療という観点からは、特に過失とすべき義務違反はないこととなる。

5  むすび

よつて、被告日赤、同厚生連は、右両医師に過失と目すべき法的義務の違反がない以上、右両医師の使用者として民法七一五条による責任を負うべきいわれはないが、被告静岡市は、水野医師の使用者として、水野医師の過失と相当因果関係のある原告塚本の失明により生じた後記損害を賠償すべき責任があるものというべきである。

第四  損害について

一本件医療過誤の損害に対する寄与の程度

原告塚本が本症により失明するに至つたのは、前述したとおり、水野医師の眼底検査実施義務・光凝固についての説明義務の懈怠という診療上の過失に基因するといわなければならないが、他面、第三の四において前述したとおり、本症の絶対的原因すなわち素因は網膜の未熟性そのものにあるのであり、とくに同原告が生下時体重一、二八〇グラム、在胎週数三〇週のいわゆる極小未熟児であつたことを考えれば、同原告の出生時の網膜の未熟性は、かなり高度であつたと推認することができる。

本症が網膜の未熟性をもつて生まれた児においてのみ発生することは、前述のとおりであるから、原告塚本の場合にも、網膜の未熟性をもつことなく出生したならば、本症に罹患することはなかつたのであり、たまたま同原告が高度の網膜の未熟性を有していたために、これが前述の診療上の過失と競合して、失明という重大な事態に立ち至つたものと考えられる。このような場合、失明による全損害を診療上の過失にもとづくものとすることは、不法行為責任としての損害の公平な負担という観点からみて妥当ではないから、右の場合には、診療上の過失が失明という結果に対し寄与したと認められる限度において、過失による損害賠償責任を負担させるのが相当であると解すべきである。

本件の場合、同原告の網膜の未熟性の程度、水野医師の診療上の過失の内容および程度、失明に至る経過、とくに同原告の生後六八日目における眼底所見および七〇日目における脳波所見からみて、右時期にはすでに両眼とも治療不能が確実になつていたものであり、転医のための移送を相当程度の安全率をもつてなしうるようになつた時期と右治療不能の確実になつた時期との時間的間隔がかなり短いことなどを総合考量すれば、同原告の失明に対する網膜の未熟性の寄与の程度が五割、診療上の過失の寄与の程度が五割と認められるので、同原告の蒙つた失明にもとづく損害のうち五割の限度において、被告静岡市に賠償責任を負担させるのが相当である。

二損害額

1  逸失利益

原告塚本が昭和四八年二月九日生れの男子であることは当事者間に争いがなく、同原告は、本件事故がなければ将来順調に成長し、学校を卒業したのちは六七才に達するまで稼動し、収入を得たであろうと推認することができる。しかるに、同原告は、本件事故によつて両眼の視力を完全に失い全盲となつたのであるから、その労働能力を全部喪失したものというべきであり、その逸失利益の算定の方法については、当裁判所は、つぎのような方法によることが相当であると解する。

すなわち、同原告の稼動可能年数を一八才(高等学校卒業時)から六七才に達するまでの五二年間とし、毎年の収入額を金二三七万〇、八〇〇円(当裁判所に顕著な最近の昭和五〇年の賃金センサス第一表、産業計、企業規模計、学歴計、男子労働者全年令平均給与欄の記載によつて認められる。一か月当りの現金給与一五万〇、二〇〇円を一二倍したものに年間賞与その他の特別給与額五六万八、四〇〇円を加えた額)として、年五分の割合による中間利息をライプニツツ方式により控除した額を算出し、一万円未満の端数を調整すると、金一、七八九万円となる。

2,370,800×(19.2390−11.6895)

=17,898,354

そして、前述の寄与率に従い、その五割を算定すると、金八九四万五、〇〇〇円となる。

2  介護料

原告塚本が全盲の状態にあることは、前述したとおりであり、同原告は、視力以外の身体状態には異常がないとはいうものの、食事、入浴、排便に常時介護を要し、昭和五二年四月から盲学校幼稚部に通園させる予定であるが、通園その他の外出にも介護を欠かせないことは、同原告法定代理人塚本洋子の尋問の結果によりこれを認めることができる。

右の介護のためには、少なくとも家族一人分の労働力を必要とし、しかも、その介護労働ではたゆまぬ努力と細心の注意が要求されるものであり、その介護は少なくとも同原告が盲学校高等部を卒業する頃まで、すなわち失明して後一八年間はこれを続ける必要があとと考えられる。

右介護労働の評価は、職業的付添人の労働には及ばないまでも、一般女子労働者の労働に匹敵すると考えられるので、一般女子労働者の全年令平均給与日額(当裁判所に顕著な賃金センサス第一表、産業計、企業規模計、学歴計、女子労働者全年令平均給与欄の記載によつて認められる一か月当りの現金給与額を一二倍したものに年間賞与その他特別給与額を加えた額を三六五で除した金額)が、昭和四九年分は金三、〇七九円、昭和五〇年分は金三、七〇二円であることなどを勘案し、一日当り金三、五〇〇円と評価し、その一八年分(一年を三六五日とする。)につき、年五分の割合による中間利息をホフマン方式により控除した額を算出し、一万円未満の端数を調整すると、金一、六一〇万円となる。

1,277,500×12.6032=16,100,588

そして前述の寄与率に従い、その五割を算定すると、金八〇五万円となる。

3  慰藉料

原告塚本が本症による両眼失明のため全く光を奪われ、暗黒の世界で一生を送らなければならないことによる精神的苦痛は察するに余りあるものがあり、その精神的損害は甚大というべきである。しかし、他面右失明は、前述したとおり、水野医師の診療上の過失と同原告の高度の網膜の未熟性とが競合して発生したもので、右失明に対する網膜の未熟性の寄与の程度は少なからぬものがある。また、同医師のおかれた具体的状況、とくに本件事故発生の当時静岡市立病院には専任の眼科医はおらず、非常勤嘱託医として週一回応援を求めていた藤堂医師に眼科検査を依頼する外はなく、専任の眼科医が在勤する場合に比し、その協力を求める体制に十分とはいえない面があつたと考えられること、しかも、前述のとおり、同原告については、転医のためお移送を相当程度の安全率をもつてなしうるようになつた時期と右治療不能の確実になつた時期との時間的間隔がかなり短いことなどを考慮すると、本件における同医師の過失がとくに大きかつたとは認められない。さらに、同医師は、全身状態の著しく悪い極少未熟児であつた同原告に対し、前述したとおり、児の状態に応じてかなりきめ細かい酸素投与方法を実施するなどして、生命の危機の回避に努力し、救命の目的を達成しているのであり、以上の諸事情を総合して考慮すると、被告静岡市が同原告に対して支払うべき慰藉料の額は金六〇〇万円をもつて相当と認める。

4  弁護士費用

本件訴訟の難易、請求の認容額など本件における諸般の事情を総合して、被告静岡市が原告塚本に賠償すべき弁護士費用は金二三〇万円をもつて相当と認める。

5  損害額の合計

以上損害額の合計は、金二、五二九万五、〇〇〇円となる。

第五  結論

以上の次第で、原告塚本の被告静岡市に対する本訴請求は、金二、五二九万五、〇〇〇円とこれに対する本件訴状送達の翌日であること記録上明らかな昭和四八年一〇月三〇日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で、その理由があるから、これを認容すべきであるが、その余の部分ならびに原告森、同大池、同石川の本訴請求は、いずれも失当であるからこれを棄却することとする。よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項本文をそれぞれ適用し、なお仮執行宣言の申立は、相当でないと認められるので、これを棄却し、主文のとおり判決する。

(松岡登 人見泰碩 渡辺壮)

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